Artに境目はないということ。
ルネサンス期との戦い
"レオナルド・ダ・ヴィンチ"からの"カメラの登場"。Artは終わり?
いや違う。
辻堂在住のてっちゃんがくれたLINEに"オリラジあっちゃんのYouTube"が添付されていて「面白いよー。」と添えられていた。
動画をぽちり。そこから5時間(動画自体は40分程度?)。創造力が止まらなくなった。
5時間後、"ふっ"と,「もつべきものは友だな〜。」としみじみと味わった。そろそろてっちゃんにお礼のLINEしなきゃ。
面白動画?い~や、革命動画だった。
さすがはあっちゃん!観る人によっては楽しく笑える面白動画に仕上がっている。
でも、私が悩んでいることをまるで知っているかのようにジャストなタイミングでこの動画を送ってくれたてっちゃん。
この視点を必要だと思っている人が観ると、きっとクリエイティビティーのスイッチが入ると思う。
はじめて図工専科を担当するから、たくさんのことを考えて、行動して、製作して、夢中に走ってきたところに、風景を眺める視点を与えてくれた。急いでいると景色見るの忘れることありますよね?
なんのために走っていたのか。
当たり前ですが、子どもたちの笑顔を見るためです。
そのためにこれでもかって程に考えてきたのに、その笑顔を見ずに走り続けていたとしたら・・・。
そんなもったいないことないですね。
準備を重ね、試行錯誤し、時にダレながらも奮い立たせて作った"図工室"で始まる、その素敵な光景を見ずしてなにが楽しいのか。
てっちゃんがあのタイミングでLINEをくれたこと。
あれが光景をみる前の最良のアクションだったことは間違いない。
人は一人では決して強くない。こうした仲間がいるからこそ頑張れるし、太くなれると思った。
動画の中の言葉「固定概念からの脱却」
このワードが今悩んでいることの全てをつなぎ合わせてくれた。
そしてそれと死に物狂いで向き合ってきた芸術家たちの物語から知恵と勇気と感性をもらった。
もはやArtは完成された作品のことではない。
その人の生き方、生き様を転写した造形物であること。
小手先で何かしようとせず、社会に心をぶつけに行く勇気。
どうすれば伝わるか考える知恵。
誰にもない、その人だけの感性。
画一化された時代の流れに、どんな渦を巻き起こせるか。
世界中の人が模索していると思う。
さて自分は。てっちゃんにお礼を言ってから、いよいよ行動に入ります。
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
ほんとうに遠回りですが、20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。
家庭 × 教育 × 社会 × 環境 × 熱意 = 平和
人と人・人と環境を紡ぐblogを目指して。
「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。
次回 :「オンライン学習とオフライン 〜いつ飲み屋さんに行けるんだろう〜 」
今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。
@mucchuart
悩みの質を上げること
人は生まれながらなの”メイカー”である。
改めまして、小学校教員で今年図工専科をしています"mucchu(むっちゅ)"です。
(*夢中に取り組んでほしいという願いを込めて合言葉にしています。)
授業時数のこともあってか・・まだ正式な授業を始められていませが、我慢できず、図工通信mucchuの発行や学校ホームページ「図工室より」に面白い工作を載せ、じわじわと浸透しています。(むっちゅという合言葉もかなり親しまれてきたような・・。)
一度だけオリエンテーリングをした5年生の数名の子たちが、毎回の休み時間に欠かさず図工室にきてくれるようになりました!
「こんなの作ってきましたー!」や「この材料使ってみたい!いいですか?」など、意欲むんむんで遊びに来てくれます!
授業が始まる前から、一緒にいる時間が楽しくて仕方ないです。本当にとても嬉しい。
遊びに来てくれる子たちと、「今週のアートmenu!」というものを作成しました。*上記写真
図工室にある材料で、「誰でも、簡単に、手早く作れて、楽しいもの!」を一緒に考えてメニューにしてみました♪
- menu
- ①らくがきアート:刷っておいた「モナリザ」の塗り絵にらくがきする。木片に
- ②マイ黒板をつくろう!:図工室の端に、たくさん置いてある木片から好きな形を選んで「黒板塗料」を塗る。
- ③サイコロ作り:オリジナルの絵を描いてサイコロ合わせゲームをつくる。
毎日くる5年生の子たちはすっかりお店やさんのように、低学年がくると「いらっしゃいませ〜!」と言って、作業の材料を選んであげたり、作り方をレクチャーしてくれたりします!
図工室を改造して、かなり自由な空間に変容したことで、創造性を駆り立てられることを私自身も感じていましたが、私なんかよりも子どもたちはその何倍もクリエイティブにものを生み出しています
。
かのピカソは「子どもは誰もがアーティストである。しかし、大人になった時にそうでい続けられない。」と、述べています。
画一、均一が、その可能性を大いに握り潰してきたのではないでしょうか。
はみ出るだけで排除されたら、誰もcreativeな道を選ぶはずがない。
人と違うことをしただけで、白い目で見られたらもう二度とやらないだろう。
一度、「だめ!」と言われたことは、もう興味をもちにくくなってしまうことだろう。
そんな空間には、絶対にしない。(安全性は別の話。)
「一生懸命に考えて、あーでもない、こーでもないと悩むことを楽しんで、"これがいい"と思ったことを、とにかくmucchuにやってみる!」と掲げ、全てを全力で出し切れる空間を保ち続けたい。
人は生まれながらにしてメイカーであり、後世にそれを技術として残し、紡ぎたい生き物なのだと思う。
それはもはや、人が息を吸うことと同じほどに、当たり前の事象なのだと思う。
レッジョ・エミリア100の言葉にもあるが、それを環境が文化が奪い去ってしまう。そのことに大人たちが早く気づき、後世にクリエイティブな自由な空間を創り残すことは、今を生きる私の使命の一つに思っています。
悩みの質を上げればいい。
悩むことからは離れられないなら、悩む質をあげればいい。
先でも書いたように、きっと人は古代の頃から物作りをやめた歴史はないのだと思う。むしろ進化し続けてきた。
メイカーである人間の根底にある力。それは"考える力・悩める力"だと思う。
縄文土器に先の尖った土器がある。
そのまま立てたら倒れる。今では、当たり前だが、当時は天才的な発明品である。
煮炊きをする=食文化が変わる。だけではない。その度にクリエイティビティーな人間が生まれてきたのだ。
古来、そうした発想力や創造力に支えられ、育ってきた人間は「考えること」をやめることはないと思う。考え、悩み行動してきた生き物だから。
もし考えることをやめた時が、本当のシンギュラリティーであることは間違いない。
人はいい・悪いを除いても常に"考えているか、悩んでいる生き物"だと思う。
意外にも脳が1番休んでいる時は、スポーツをしている時、という話を聞いたことがあり、なるほどと思ったことがある。
考えたり、悩んだりすることから避けようと思ってもそれは無理だと思う。
そういう気持ちをもって旅行に行く人も多いと思うが、頭を空っぽにするなんてことはできやしない。
お腹が空けば食材のことを"考える"し、太陽が眩しければ紫外線に"悩む"のだ。
何も考えないようにしよう、しよう、と考えれば考えるほど、「何も考えないようにしよう。」ということを考えているのだ。
だから、きっと考えること・悩むことから避けるのではなく、考えたり、悩んだりしていることの質を上げ、そのこと自体を楽しんだ方がいいと最近思う。
もちろんいつでもそうできているわけではなく、不意に考えたくもないことが入ってくることもあるが、それよりも考えたいことがあると、そのことを考えたいためにそうでないことを効率よく作業し、手早く終えようとすることを覚える気がする。悩みも一緒だ。
質の上げ方は人それぞれだとは思うが、私は単純に"成し遂げたい目標"ということにつながる考えや悩みを増やしている。
そして、その目標が世の中の全てのことに関わってくる目標なため、世で起こる全てのことが学びになっている。(というかそう捉えようと思えば、そう捉えれるという話なだけでもあるが・・。)
生まれながらのメイカーたちは、黒板化した図工室の壁の前にチョークケースが置いてあれば、当たり前に絵を描く。というか、私も最初に我慢できず描いた一人。
頭の中で考えていることをなくそうとするよりも、余計な悩みが入る余地がないほどに考えたくなるものに出会える努力をする方がいい。
そんなことを考えていると、世の中の見方が少しづつ変わってきたように思う。
一言で言うと、「世の中に無駄なものなんて、ない。」というように。もちろん手に取るかどうかは別にして、まず向き合ってみるということにつながる。
人は脳の2%しか使っていないって、どこかの科学者が言っていた。きっと私がフルスペックで脳を使ったところでパンクはしないだとう。だから、とことん考えること・悩むことと向き合い、その一つ一つの質を上げることを選択するようにしている。
これから図工室で作業を始める子どもたちにも、そんな"悩み方"に出会ってほしいと思っている。
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〇〇世代という名のレッテル
「ゆとりですが、なにか。」岡田将生が出ていたドラマの題名
「ねぇ。何世代?」と聞かれたことありませんか?
私は、まさに昨日も聞かれました。笑
中でも1番多い質問が「ゆとり世代?」です。まさに「違いますけど、なにか。」である。
この「〇〇世代」という言葉は、ある意味で"その時代を表現する便利な言葉"のように扱われることが多い。
表現力の面で言えば、一定のコミュニケションを円滑に回す言葉回しと捉えれば面白さもある。
最近では「お笑い第七世代」という言葉が、メディアによく取り上げられる。(たしか霜降り明星のせいやさんが言った?とか。)
しかし、扱い方を少しでも間違えると面白さは一変し、それは瞬時に"レッテル"になる。
レッテルの表現すべてがいけない、なんてことも思わないが気をつけなくてはいけない表現方法の一つであるとは思う。
現代はSNS依存(もはやSNS疲れにも達している面もあるが。)が社会問題に発展するケースが大いにある。
SNSを介して起こる"誹謗中傷"への法律が制定されるに至っているほど、インターネットが社会の中に浸透し、もはや一つの社会として成立される日も近いことはもはや明らかである。(SNS元年がそろそろ来るのかな。)
サイバーセキュリティー課ができ、ハッカーはWhiteとBLACKに別れる時代。
一つの言葉がもはや「やっぱ待った!」にはできない時代。・・・・
と、なんでもかんでも"時代"や"世代"のせいにはしたくない。という話を書きたい。
「〇〇世代だからね〜。」が、その世代全員に当てはまるはずがない。
もちろん生まれ育ち、住む場所の教育や文化、思想などの環境の状況がその人の生活に大いに影響を与えることはある。
でも、どの時代にいようが大成する人はするものだ。この間のNHK知恵泉「白洲次郎さん」の特集を見てよく分かった。
どんな時代でも"大成することを目指す人"ではなく、「何を大切にしようと思っているか。そのために何ができているか。」ということを大事にしながら行動している人間が、人々や環境によい影響を与え、次世代にも紡ぐ思いを残しているように思う。
だから"生きた時代が・・世代が・・”のせいではなく、今の現状をよくよく観察して、把握して、考察して、「自分は何ができる何者か。」ということと向き合い、その上で「何を大切に生きていくのか。」に夢中になって取り組み、振り返り、改善し、「何ができる何者で何がしたいのか。」をアップデートしていくことが大切だと思っている。
そこには、時代とか世代とかの言葉に流されない"願いや思い"が備わっているかどうか。
それが大切だと思う。
そうした”願いや思い”と向き合うための"人の活力になる心の力"、その素地や時に活用の仕方が"日々の学びの中"にあったとしたら、人は一体どこまで成長できるのだろう。そんなわくわくする公教育にしていきたいたから、具体的に動くことをやめない。
だからこそ、絶対にコロナのせいになるレッテルは貼らせない!
時代や世代と並び、「〇〇のせい」にされがちなのが"出会い"だとも思う。
でも、それも脱却することはできる。
するか、しないか。慣習という名の檻から一歩踏み出すか出さないか。それだけで未知ではあるが、選べる道が無数に広がる。
その先に何が待っているか、それは誰も知らない。
「その檻からは出ないよ。」「その先は怖いよ。」って、きっと教わってきたんだろうな。
でも、それで合っているのかどうか考えながら歩んでいくことが大切で、そうした思いや考えを重ね、語り合える人たちのいる環境に自らの身を委ねる選択を選ぶこともできるはずだ。
でも、いきなりそんな一歩を踏み出そう。なんて言われても「えっ。」と戸惑う。
しかし、様々なことの本質と向き合おうとしていると、自然と何を大切にしたいかが見えてきて、そちらに「す〜。」と吸い寄せられていく感覚に出会うことがある。自分が大切にしたいと思えることのアンテナがあると、街中を歩いていてもそれが気になるということ。
例えば、自然界の危機を感じ、大切にしていきたいと考えているからエコマークがついているものを見ると「ん?」ってなる感覚。
選択肢を選ぶという時に人の脳裏に現れる言葉。「逃げ」というレッテルの言葉。
選択することは、気持ちの在り方で180°意味合いが変わってくる。
何かが嫌だから違うところにいく。
そうではなく、大切にしたいことに近づこうと歩んでいけばいい。
そんな風に歩んでいたら、「嫌だ。」って思っていたものからも、自然といつの間にか離れているし、大切なことを近くで見る、感じ取るための選択をしたまでに過ぎない。
それは逃げるではない。向かうであると思う。
他者からの影響で動く前に、自分が動きたい方角も指し示せると迷わなくなるのかなもしれない。
だから、時代や世代や出会いのせいではなく、「自分がしたいことはなにか。」ということに近づこうとしているかどうか。
そうした視点で歩むことを大切にしたいし、そうした視点を自分の経験と絡め、子どもたちにも伝えたい。
それが少し先を生き、経験したことのあるものができる唯一の学びな気がする。
でも1番は、世の中がレッテルを貼るかどうかなんて、正直どうでもいい。
そんな風に思える人が増えてほしい。
正直、そんなレッテル貼りに構っている暇はない。と言えるほど、やりたいことや1回の人生では時間が足りない!と思えるくらいに大切にしたいことが見つかる、そんな魅力的な人が育つ”教育の場"にしたい。
色々な色が輝きを放つためにキャンパスは白い。
学校も真っ白で待つ!その勇気が必要だと思う。
「準備してあるもの」と、「用意がしてあるもの」
この準備と用意の意味合いのちょっとの差が、子どもたちの可能性の広がり方には大きく関わると思っている。
”願いや思い”を具体的にしていくため、具体的に動いていくことをやめない。
何かの要因があったから動くこともあってもいい。
でも、それはあくまでもきっかけなだけであって、その時だけ乗り越えられればいいような選択も時には大事だが、どんな状況下でも大切なことはいつでよ、どんな時でも動くべきだと思っている。
今やれること、やりたいこと。
一人ではとてもじゃないけど抱えられない。
(一人でできることくらいならそもそも悩まないか。)
だから、仲間がどれだけ大切か。
自分にはできないことをできる人。
自分にはない感覚をもっている人。
自分がしたことないことをしてきた人。・・・・
世の中にいる人、みんなに話を聞きたい。
それには大人も子どもも関係ない。
今やれることに全力を注ぎ、その経過を次回書きたい。
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学校って何だろう。
「決まっていること」からの脱却
勤務している小学校のホームページに特設ページを開設してもらうことができた。
「図工室より」・・・とても普通の名前。
でも!内容はSTEAM学習に近い活動を中心に取り上げていこうと思う。
(本当は「Art room」とか「〇〇Labo」とかにしたい。流行ったら改名を依頼してみようと思います。)
隣町がこの休校中に50人もの教員有志を募り、約300本のパスワード付きの動画配信に取り組んだ。
素直に・・尊敬する。けど、悔しいが本音。
"具体的に動いてみる" 相田みつおさんの言葉。明かに、これが足りなかったことを知らしめてくれた出来事だ。
先を見通し水面下で動くことは、後々に結果が見えてくる。その時にはもうそこにはいなくとも、その価値は廃れない。
しかし、この"具体性"という力を利用できなかったことに反省している。
幅が広ければいい訳ではないが、大きく動いてみて初めて見える感覚は必ずあるし、そうしてみないとできない失敗がある。
要は経験してみたことのないことをいくら机上で語り合っても、マジックワードだけが綺麗に並び結果「誰も動かなかった。」ということになりがちになる。
それを解消するのがこの「具体性」だ。それに気づき、叩かれようが、罵られようが・・・(別にそんなことはされていないが、今後もしもあっても。)あえて「決まっていることから脱却してみる。」ことを選択する。
その意識が高まったのは、「高司という男」と約2年前から始めた"ted(自主研修)"であり、そこで出会う他地域・他業種の方々の影響は大きい。自分たちだけじゃないんだ、戦っているのは。そう思わせてくれる仲間がいることは何よりも強みになる。
stay×HOME期間があり、こんなにまで自分が"オンライン"を活用して様々な学習会に参加し、学ぶ日が来るとは思ってもいなかった。
今まで"感覚"だけで超えてきた様々な壁。この壁を越えられたのは自分の感覚が素晴らしかったからじゃない。薄くて脆い壁なだけだったということ。要は、本当に大きく分厚い壁に出会えるほど、自身の位置が高まっていなかったことにも気付いた。
そして、はじめて担任を離れ「図工」という教科に専念し、学習してみるとSTEMに"A"が加わりSTEAMにした理由がよく分かる。
ARTは、すべての教科の空白を埋めつなぐ"絵具の役割"だと思う。(つなぐと言っても"のり"ではない。)ばらばらになりがちな"教科という枠組み"を多様な色彩、濃度でつなぐ。そんなイメージが湧いてきた。
それは、担任を15年やってきたことが活きていることも実感できる。
そして、それを全力で表現できる"図工室"改め「アトリエ」があること。これは、本当に大きい。
教員はじめて15年経ち、お恥ずかしいですが「1からやる。」それも、今までいなかった舞台を広げて。
具体的に動く&「高司という男」
「この写真どーこだ!?」明日の図工の第一声だ。
この後、子どもたちと何するか分かりますよね?わくわく。
ホームページ開設、相互関係のある通信の配信、お茶会(コロナが治れば。無理ならオンライン)、企業とのタイアップ・・・
全部やってみはじめている。どんなことが起こるか分からない。まさに探究的革新を目指して。
「決められたことをなくす。」という発想はやめる。そうでなくて、「まだ決まっていないことをやってみる。」
それが現代版"具体的に動く"だと思う。
そりゃ〜図工室の壁を急に塗料で"塗り塗り"し始めたら驚きますよね。でも!白洲次郎が最も大切にしてた"principal(原理・原則)"があり、それに伴う熱量、evidence、Communicationがあればクリアできることも見えてきた。
身勝手とは違う。信頼関係の形成がなされた関係性の中だからこそできることを忘れない。
今までにないことを見つけることの方が難しいほどに、世の中は"刺激物"で溢れている。でも、揺らがない本質は常に一人ひとりの中にある。それを1番素直に教えてくれる子どもたちに、"今、私が取り組もうとしていること"がいいか、どうか教えてもらいながら一歩一歩進んでいこうと思う。
全人類70億人
人は、生きている間に一体何人と出会うのだろう。
"出会い"といっても形は様々。
生まれて最初に出会い、一生共に歩む家族。
青春時代を含み、多様な刺激をくれる友達。
恩師と呼べる数々の人生の先輩達。
心許せる仕事の同期。
熱量で奮い立たせてくれる後輩。
新しい人生観をくれる奥さんと娘。
出会いの形を広げてみると、青春時代にtvの向こう側にいた歌手もアニメのヒーローも、髪を切ってくれた美容師さんも、近所の駄菓子屋のおっちゃんも、六本木でしか会わない外国の仲間も・・・。
すれ違っただけも出会いとしても、マスメディアを通じて声だけ聞いたことも出会いとしてみても、雑誌で見たことあるハリウッドスターも出会ったとしてみたとしても、全人類の一体何分の1にしか会えないんだろう。
中学生の修学旅行。くじ引きで決まった班に、それまで全然話したことのない人がいた。
楽しめるのかな?って、頭をよぎった。
でも、今までまったく知らなかったその人の良さを2泊3日で驚くほどに感じ、旅行が想像よりも何倍も楽しめた。
出会いって不思議だ。
選ぶ、選ばないじゃない。
70億分の出会えたその奇跡をどれだけ大切にできるかだと思う。
人は誰一人一緒ではない。
だから揉めるし、ケンカも起こる。でも、だからこそ刺激し合い、分かち合い、喜びも生まれる。
出会うことが人を大きく変え、成長させることは往々にしてある。
採算登場する「高司という男」も、その一人である。
人は出会って0.3秒で、相手の印象、その後の付き合いが決まると言われているが、それは付き合い方による。
「刺激?」「正解?」「期待。」一言では表せられない男だ。
出会ってからのことも書きたいし、そこでどんな刺激をもらっているかも書きたいが、ブログに書くきっかけになった言葉からみるその魂について書いてみる。
「教員15年目でも、3年目からアップデートしてなかったら実質3年目ですね。」
ドキっ!ってなる人もいますよね。こういう言葉をさらっと言える男。どこでこういう感覚になるんでしょうね。凄いよ。
当然、互いに刺激し合うため、こちらの趣味や興味にも誘う。
そこでかなり180°、要は自分にはない感覚の感想を聞くことがよくある。
だからだろうな。一緒にいて面白いのは。もちろん合致することもよくあるけど。
今、公教育の現状を何とかよくしたい!と全力を注いでいるのが離れていても分かる。会えばもっと分かる。
何かを合致させなくていい。言いたいことが言い合える。そんな仲間ってありがたい。
tedというコミュニティーに、そんな仲間が集まり始めている。
がむしゃらに、時にとんがり、時にまん丸に、繊細に、でも大胆に。principalが似ていると、表面の形はどう変わっても問題ない。
いつの日か、肩の力を抜いて笑って話せるように今を仲間たちと共に全力で進もうと思う。
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
ほんとうに遠回りですが、20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。
家庭 × 教育 × 社会 × 環境 × 熱意 = 平和
人と人・人と環境を紡ぐblogを目指して。
「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。
次回 :「オンライン学習とオフライン 〜いつ飲み屋さんに行けるんだろう〜 」
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@mucchuart
Internet内は、society1.0から2.0へ?
さて、どこに合わせましょうか?笑
人はいっぱいいる。
「世界平和」は目指すものじゃない。なるものだろうな。
自分のプリンシパルとしてあるだけ。目指している!と、銘うつとそれに向かっている状態の自分に満足し、気づかぬうちに囚われてしまっていると思うよ、自分。
しかし、その願いの実現には見つめていく世界観が世の内側には、とても多いということが最近よく分かるようにようやくなってきた。
先駆者が見ている世界観には、一周回ってくる未来予知のようなものがあって、きっとその予知が見えるからこそ臆病になり、結果謙虚になれるのだと思う。何かを成し遂げている人の本質は、謙虚さに凝縮されている気がする。
かたや現実、目の前の論議はまた形が違う。身を置く場所、語ることの質・量、直近のことに目を向けていることが多い。
その両端を複雑化させてたのは、紛れもなくinternet社会だと思う。
さらに言えば、その中の匿名という手法。ラジオのペンネーム〇〇さん(過去1番印象に残っているのは「太陽は」さん)の頃は、扱える件数に絶対的な制限があったからまだよかったのかもしれない。ラジオ局に届く葉書全てに対応できる尺が無限にある訳じゃないから。
しかし、internet社会は違う。いつでも、いくらでも、誰から誰にでもコンタクトや発受信が可能になった。
人から人へ何かを伝えようとしたときの時代変化を考えたい。
society1.0から考えたら、人から人への言語・何かしらの書記・雰囲気・表情を必要なご近所さんと共有していたのだろう。
その後、伝言板や鳥や馬による手紙、郵送業・飛脚、ポスター、新聞、電話、ART、音楽、TV、そしてinternet。さて次は・・。
コンタクトが図れることが悪いことではない。その有用の仕方が世をねじ曲げているのが現代だと感じる。
菅田将暉主演のドラマ「3年A組」のラストシーンが必要になった時代なのだ。
情報過多な時代、SNS疲れですよね。
自分が欲しいなって思ってから情報を探す行動と、求めてもいない情報に意識を無意識に持っていかれているのと、1日で換算したらどっちが多いでしょうか?気づかない間に、その情報過多な渦にのまれ疲れている人は本当に多いと思います。
でも、internetがある現実社会はその進化が止まることはないでしょう。もっと知らないうちに疲れる人が増えるかもしれない。
5Gにより、いよいよの5.0時代に本格的に突入する。
勝手ながら、現実社会とバーチャル空間を分けて考えてみると、現実はsociety5.0を迎えるが、ではそのinternet上のバーチャル空間の世界の中にいる人類は、歴史として見たら今はまだ現実社会がマンモスを個々が追いかけていたあのsociety1.0時代に近いのかもしれない。
しかし、このコロナにより急速早まった感覚がある。それがinternet上で人と繋がることへの軽さだ。
NEWS picksの対談でキンコンの西野さんやオリラジ中田さんが言っている「オンラインサロンを集落と位置付ける。」とする動きが始まっているとするならば、聞いていてそれはインターネット上の土地取りが始まりつつあるように思えた。
バーチャル空間といえど、土地が存在し始めている。それはinternet時代のsociety2.0、現実社会で言えば弥生時代の米の土地合戦と同じように思える。
ここからが本当の課題で、現実社会の歴史を子どもたちと話す中で、「縄文時代長っ!」は絶対に理解しなくてはならない。
なぜ長く反映したかは当たり前だが、差がなかった?ケンカはあっただろうけど差はなかったのかもしれない。
となれば、いよいよinternet時代の急激な加速は、この"集落"という考え方から始まっていくような気がしている。
弥生時代からたったの2000年で約20もの時代変化が起こった。これは間違いなく、領土の奪い合いが始まったからである。
「歴史とは結局、時の権力者が誰で、土地を牛耳っているのは誰かわかれば分かる。」なんていう悲しい歴史の教え方がシンプルで分かりやすく少なってしまう程に。
仮にinternet上の土地の奪い合い、所有が始まっていくことになったとしたら、いよいよバーチャル居住者が生まれてくる。
それはもはや情報過多ではなく、住み着く現実世界になる日もそう遠くはないのかもしれない。
そしてまた歴史は繰り返され、インターネット上の総理大臣や大統領が生まれる悲しい結末がありそうな気がしてならない。
結局は、行動していることが考え出し、答えになる。
行動は、がむしゃらだけじゃだめで、裏付けや根拠がいるし、信念に向かうだけの当たり前の努力がものをいう。
口だけならなんでも言えるか。
Shaw shankだって、出られたーを伝える映画じゃない。
哲学的なevidenceがすごく詰まっている気がする。
オンライン学習や探究のことを語り合っていると決まって「全員が恵まれているわけではない。」・「みんながやりたいことがあるわけではない。」の話に必ずなる。
決してそれがいけないわけではない。でも、そこにいつまでも足踏みをしていたら教育の世界は絶対に変わらない。
世の中がこれだけ変わろうとしているのに、今動かないで後にその課題を回していいのか、いいわけない。
休校で時数が少ないからばんばん算数やらないと・・・。よりも、教えないといけない現実世界の変化があると思っている。
教育者の本質は、目の前の馬鹿なことを全力で笑い合える空間と、先の人生をちゃんと語り合える信頼だと思う。
そのどちらも、決して決められたことの書かれた指導要領や教科書には載っていない。それを探し続けるのが先生の仕事のはずだ。
何かを行うなら、何かが起こりうるのは当たり前のこと。
「利は義の和なり」最終的になにがしたいのかのために、足踏みはもういい。
目の前のリターンではなく、遠くに控えている世界のために動くことを考えながら歩いていないと、internet時代、第2ステージ"住居"には到底、対応できなくなる。エビデンスもない空論だが、教育界の危惧はここにあると思っている。
目の前の人が置かれている状況を、無視して進むことは決していいことを生まないことは分かる。
だからこそ、情報過多な時代に踊らされることなく、そしてますます変化するsociety5.0時代をるんるん気分でポップに笑顔でみんなと歩めるように、毎日勉強したいと思っています。
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
ほんとうに遠回りですが、20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。
家庭 × 教育 × 社会 × 環境 × 熱意 = 平和
人と人・人と環境を紡ぐblogを目指して。
「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。
次回 :「高司という男」
今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。
@mucchuart
SDGsは思いを紡ぐ指針 やらされるものであってはならない
「SDGs」を"思いを紡ぐ指針"と捉えてみる。
「SDGs」のロゴたちってカラフルで見ているだけで「なんかいい。」って目が引くようにdesignされている。
分かりやすく、でも伝えることは伝える、それも簡潔に、そしてみんなの目が止まるように。
国連が認めたデザイナーがdesignしたんだろうな。誰だろう。今度調べてみよう。
今、SDGsと教育を扱うonline講演に参加してきた。
教育にどう絡められるか。このタイトルに疑問を抱いたため参加してみた。
無理に絡めようとしないでほしい。と思っているからだ。
SDGsは「教わるものじゃなくて、感じること」だと思うから。
この写真みたいに、自分の好きなものを選びたいと思ったら選ぶものであってほしい。
例えば、知識として"食品ロス"のことを知ることは決して悪くない。むしろ事実は全員に知ってほしい。
でも、「だからやりましょう。」は絶対にしてほしくない。
前に記載した「校長先生が朝会で「人を叩くのはよくない。」って言ってたから、叩いちゃいけないんだよ。」の話になってしまう。
それも、世界規模で取り組もうとしている活動に向かうマインドをそうしてしまうのは、本当に危険だと思っている。
本人が様々なことを知り、興味・関心をもち、活動し、体験し、考案した結果、取っている行動がSDGsに絡むかもしれないだけなのだと思う。
一人ひとりが大切にしようと思うマインドを、人から人へ紡いでいく中で全世界で取り組まないと間に合わないから目標を掲げたのだと思う。
でも、近道しては絶対にまた遠回りすることになる。
ゆるやかにマインドを変革していくしか、地球を守る、守れる道はないと思う。
小学校でも、緊急事態宣言が解除され学校再開の見通しがなされた。
その中で、様々な対応に対して述べたいことが山積みだが、一つ絞って書こうと思う。
給食のこと。
簡易給食が始まろうとしているが、感染防止のため使った容器等をしっかりと分別なされず処分することになっている。
「学校ってなんだろう。」緊急事態だから、みんなで守ってきた約束を破っていいって教えるところなのかな。
そもそも地球が壊れていくのと、今学校再開を急ぐこととをどう捉えていくのかな。
無理なこと、危険なことを分かっていながら、それも地球環境にも悪いと分かっていながら、それでも通常どおり再開しないといけない理由はどこにあるのだろう。
もちろん、早くみんなとちゃんと会って、思いっきり探究したい。オンラインばっかりじゃ・・・。
でも、それができない中、リスクを背負ってまで登校し、「離れなさい。」・「人と関わってはだめ。」と教育することが分かっている学舎に行かせて、一体何が成長するのだろうか。
人を安心させるのが政治の役目のはず。それができていないのなら、その価値から再定義してみたい。
私は子どもたちに、「離れなさい。」ではなく、「学校は学び合う場。どれだけ気をつけていても、関わることは必ずあります。前の日常ならいりませんでしたが、でも今はそのあとの手洗いやうがいを大切にしよう。それは、相手と話してしまったからとかでなく、お互いを守り合うための最低限のエチケットとして。」と伝えます。
北海道のドンキーさんと話してて、そう思いました。
自分と話をした後、手を洗われる・うがいをされる。日常的に考えたらものすごい行動ですよね。
でも、今はみんなが理解し合っていかなくてはならない。今はまず、それを確認する場が学校であればいいと思っている。
思いを紡ぐ先人たち
たまたまお昼休憩に家に戻ったときのこと。
娘がEテレをよく見ているので、電源を入れるとEテレのことが多い。
その日もEテレが映り、いつもの癖で4チャンを押そうと思ったがその手が止まった。
「白洲次郎」が出ていたからだ。
6年生と一緒に"歴史"を学んでいると必ずと言っていいほど「歴史人物で誰が好き?」と聞かれる。
好き?と聞かれると決まって「土方歳三」という。ラスト侍の生き様。惚れる。
でも、誰が1番凄いと思う?と聞く子がたまにいる。
教室に置いてある人物カードをもって、凄い順に並べると本当に楽しい。
「卑弥呼より信長だべ!」とか。
「カードにいないけど、米持ってきた渡来人。」とか。
「1番凄いのはビッグバン!」とか、訳わからないところまで話がいくことが多いが面白い。
その会話になると"土方歳三"ではなく、"白洲次郎"と答える。
子どもたちは決まって「え?誰?漁師さん?」なんて聞いてくる。
中には知っている子ももちろんいるので、いろいろな会話に進んでいく。
白洲次郎を子どもたちに説明するとき、このことを話すことが多い。
マッカーサーに「従順ならざる、ただ唯一の日本人」と言わしめた男だよ。と。
今日でたオンライン講話の中の資料にも合ったが、自分が国を文化を変えられますか?への解答が、日本人は先進国でもっとも低い。
国がそれを出来るだけ"人ごと"になるようにしてきてしまったのかもしれない。
特に公教育というシステムが。
画一・均一により、SDGsではすでに日本の教育はゴールしていると認められている。
このこと自体を再構築したい。
時代が大きく変わる今、全てのことを再考するタイミングなのだと思う。
教育も、経済も、国政も、育児も。
何のために頑張っているのか?
楽しめているのか?
人生それでいいのか?
これに答えるため、抗えることを毎日一つはしている。今までそこになかったことを生み出してみている。
今はがむしゃらなだけかもしれないが、20年先を意識して行動はしている。
今の抗いが、未来の幸せにつながると信じて。
白洲次郎のように、未来、言いたいことが言えるように今はスキルと経験を養うことを楽しみたい。
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
遠回りですが20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。
家庭 × 教育 × 社会 × 環境 × 熱意 = 平和 ・人と人、人と環境を紡ぐblogを目指して。
「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。
次回 :「SDGsを自分ごとにしていく6」
次々回:「SDGsを自分ごとにしていく7 」
今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。
@mucchuart
「SDGs」を自分ごとにしていく⑤ 〜 11 住み続けられる街づくりを 〜
緊急事態宣言ってなんだったんだろう。にならないように。
明日、5・25に日本の「緊急事態宣言解除」が政府より伝えられるだろう。
"あいみょん 愛を伝えたいだとか"を聴きながら、それを悩む夜の気分を書き残しておきたい。
宣言中だけど、多少の運動は。ということで、娘とチェキをもっての散歩が日課に。
娘が撮ってくれる写真は目線が違う。チェキで撮ってくれるとその場で「え、こんな風に見えてるの。」という驚きや時に戸惑い、例えばこの目線からだったら怖いだろうなとか、本当にただの散歩にチェキ一台あるだけで刺激的になる。
チェキの独特な風合いも相まって、芸術作品かproのカメラマンさんにしか思えないよ。娘よ。
そしてその写真一枚一枚をみて思う。「平和だな。」って。
この風景が残っててくれるのかな?
この視点で物事を見られるまま人はいられるかな?と。
街中はどこに行ってもマスク。今はそれがnormalであることはもちろんだし、それであるべきだと思う。
でも、未来とか現状維持とかじゃなくて、今も昔もある"単純に素敵なもの"を「素敵。」って思いながら散歩できていれば、生きることはそれでもう十分なのかもしれない。
医療従事者の方々や国政に関わるも表舞台には出ない方々。運送の方も、毎日レジ打ちのシフトに入っている教え子の女の子も。
世界を支えてくれていることは間違いない。
人はそれぞれもつ心をもとに人生を過ごしている。「自分が今、真ん中かも。」っていう瞬間がきっと人生にはあって、いろいろ考えたり、行動したり、忙しかったり、難しかったりもする時があるのだと思う。
でも。だからこそ、「顔を上げてほしい。」と思う。
考えすぎて世の中が疲れている気がする。みんな一生懸命だし、みんながなんとかしよう、このままじゃいけないってことはわかっているに決まってる。
世の中の動き、society5.0を創るために人はいるんじゃない。
楽しいことをしていたら、素敵なことをしていたら、誰かのためを思って過ごしていたら時代が勝手に変わってきたんだと思う。
今の世の中は、ある意味で革新に目処が立つのかもしれない。だから「手段が目的化してしまう。」ことが多いのだと思う。
ある意味、"未来予知"に近いものができてしまう世の中。というか、近い未来が見える世の中。
だから、足元に生えてる素敵な花に目が行かないんだと思う。
目線って難しいですね。
前を見たら足元は見られないし、足元見てたら空は見えないし。
さて、どこを見ていこう。そんなことを考える、緊急事態宣言解除の前夜。
SDGs11 住み続けられる街づくりを考えてみる
VRゴーグルをはめて、ふかふかのソファーに寝転び、点滴を打ち、VR上でbit coinを支払い、AIがそれを感知しより栄養価のバランスのいい点滴が投与される。下手すると永遠に生きられるのかな。無菌のカプセルの中で過ごしていたら。
「住み続けられる街」それをVR内に作り出すことしか方法が身言い出せない世には絶対にしたくない。その頃に、もしもそれがNew normalになっていたとしても選択肢の一つであるように。
生まれ育った環境が違えば、感覚は絶対に違う。戦時中に生きていたら、戦うことが使命だったかもしれない。高度経済成長期に生まれていたら、夜中の一時まで会議をし、朝は五時から働いていたのかもしれない。IoTの時代の今、それにすでに囚われているのか・・。
去年の6年生に「これから超便利な時代がくるよ。コンピュータとの共存社会。でも、これを便利と言える人には条件があると思っている。」なんて唐突に朝一から話をした。
「操る人か、操られる人か。このどちらかが便利な世を迎えると思うよ。そのどちらになるか、それに最も大事なのは最終的には知識じゃないと思う。誰かを大切にしたいって思ったり、素敵だな。って素直に感じれる心の持ち主であればいいと思うよ。」なにを根拠にそんな話を朝から小学生相手にしているんだろう。やはり先生って仕事のことを一回見直さないと。笑
時代は進む。今からやっぱり世の中にはよくないから、コンピュータは全部排除しましょう!っていってももう無理ですね。それをしまっておけるところがないから。もう共存しか道を残していないことにも、人類の過ちがはじまっているのかもしれないけど、それを過ちとするか、世の中全部の「世界平和」につながっていくか。今はその分岐点にある気がする。
IoTを取り入れようとする人たちが、足元の花の綺麗さも理解できていれば共存は可能だと思う。
花の綺麗さを全力で感じられる人も、その花をより大切にできるIoTの利用を考えられれば平気だと思う。
人は全員感性が違う。ここを無理に揃えることはできない。でもその感性がもっとも輝ける瞬間を、それを世界の人同士が手を繋ぎ、互いを認め合い、進化を拒まず、自然を愛し続けていければきっと「住み続けられる街づくり」ができる気がする。
幾度となく、時代の分岐を作ってきた人類。
でも、昔と違うこと。
それは確実に地球を壊してきていること。
それに向き合うこと。単純に足元の花、素敵だな。って思うことからもう一度始めませんか?
急ぎすぎてる、頑張りすぎてる世の中が、このまま疲弊してしまわないように。
決して、地球を壊すために頑張ってるんじゃないってことを証明できるのは、それをしてきてしまった人類にしかできないことだから。
明日、解除される「緊急事態宣言」。解除後、フルスペックで動かなきゃいけない人もいることはもちろん分かっています。
でも、その頑張りがどこの何に繋がるのか、ふと空を見上げたり、道端の雑草に目を向けたりして、視点を変えてみませんか?
「緊急事態宣言ってなんだったんだろう」ってならないためにも。
この期間、命懸けで取り組んでくださった方の思いを、しっかりと紡いでいくためにも。
未来の子どもたちの笑顔を想像して、明日を迎えましょう。
あいみょんのリストも"恋をしたから"まで進んだので、私も寝ます。明日がよい日になりますように。
おやすみなさい。
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
遠回りですが20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。
家庭 × 教育 × 社会 × 環境 × 熱意 = 平和 ・人と人、人と環境を紡ぐblogを目指して。
「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。
次回 :「SDGsを自分ごとにしていく6」
次々回:「SDGsを自分ごとにしていく7 」
今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。
@mucchuart