Art communication = education × mucchu × artlife’s @design blog.

[小学校 図工科の授業] 対話・共創・繋がりを通して、社会変革(SDGs・IoT等)をみんなで考えるblog @話題提供

〇〇世代という名のレッテル

f:id:mucchuart:20200610224440j:image
「ゆとりですが、なにか。」岡田将生が出ていたドラマの題名

「ねぇ。何世代?」と聞かれたことありませんか?

 私は、まさに昨日も聞かれました。笑

 中でも1番多い質問が「ゆとり世代?」です。まさに「違いますけど、なにか。」である。

 

 この「〇〇世代」という言葉は、ある意味で"その時代を表現する便利な言葉"のように扱われることが多い。

 表現力の面で言えば、一定のコミュニケションを円滑に回す言葉回しと捉えれば面白さもある。

 最近では「お笑い第七世代」という言葉が、メディアによく取り上げられる。(たしか霜降り明星せいやさんが言った?とか。) 

 

 しかし、扱い方を少しでも間違えると面白さは一変し、それは瞬時に"レッテル"になる。

 レッテルの表現すべてがいけない、なんてことも思わないが気をつけなくてはいけない表現方法の一つであるとは思う。

 

 現代はSNS依存(もはやSNS疲れにも達している面もあるが。)が社会問題に発展するケースが大いにある。

 SNSを介して起こる"誹謗中傷"への法律が制定されるに至っているほど、インターネットが社会の中に浸透し、もはや一つの社会として成立される日も近いことはもはや明らかである。(SNS元年がそろそろ来るのかな。)

 サイバーセキュリティー課ができ、ハッカーはWhiteとBLACKに別れる時代。

 一つの言葉がもはや「やっぱ待った!」にはできない時代。・・・・

 と、なんでもかんでも"時代"や"世代"のせいにはしたくない。という話を書きたい。

 

「〇〇世代だからね〜。」が、その世代全員に当てはまるはずがない。

 もちろん生まれ育ち、住む場所の教育や文化、思想などの環境の状況がその人の生活に大いに影響を与えることはある。

 でも、どの時代にいようが大成する人はするものだ。この間のNHK知恵泉白洲次郎さん」の特集を見てよく分かった。

 どんな時代でも"大成することを目指す人"ではなく、「何を大切にしようと思っているか。そのために何ができているか。」ということを大事にしながら行動している人間が、人々や環境によい影響を与え、次世代にも紡ぐ思いを残しているように思う。

 だから"生きた時代が・・世代が・・”のせいではなく、今の現状をよくよく観察して、把握して、考察して、「自分は何ができる何者か。」ということと向き合い、その上で「何を大切に生きていくのか。」に夢中になって取り組み、振り返り、改善し、「何ができる何者で何がしたいのか。」をアップデートしていくことが大切だと思っている。

 

 そこには、時代とか世代とかの言葉に流されない"願いや思い"が備わっているかどうか。

 それが大切だと思う。

 そうした”願いや思い”と向き合うための"人の活力になる心の力"、その素地や時に活用の仕方が"日々の学びの中"にあったとしたら、人は一体どこまで成長できるのだろう。そんなわくわくする公教育にしていきたいたから、具体的に動くことをやめない。

f:id:mucchuart:20200610222013j:image

だからこそ、絶対にコロナのせいになるレッテルは貼らせない!

 時代や世代と並び、「〇〇のせい」にされがちなのが"出会い"だとも思う。

 でも、それも脱却することはできる。

 するか、しないか。慣習という名の檻から一歩踏み出すか出さないか。それだけで未知ではあるが、選べる道が無数に広がる。

 その先に何が待っているか、それは誰も知らない。

 「その檻からは出ないよ。」「その先は怖いよ。」って、きっと教わってきたんだろうな。

 でも、それで合っているのかどうか考えながら歩んでいくことが大切で、そうした思いや考えを重ね、語り合える人たちのいる環境に自らの身を委ねる選択を選ぶこともできるはずだ。

 でも、いきなりそんな一歩を踏み出そう。なんて言われても「えっ。」と戸惑う。

 

 しかし、様々なことの本質と向き合おうとしていると、自然と何を大切にしたいかが見えてきて、そちらに「す〜。」と吸い寄せられていく感覚に出会うことがある。自分が大切にしたいと思えることのアンテナがあると、街中を歩いていてもそれが気になるということ。

 例えば、自然界の危機を感じ、大切にしていきたいと考えているからエコマークがついているものを見ると「ん?」ってなる感覚。

 

 選択肢を選ぶという時に人の脳裏に現れる言葉。「逃げ」というレッテルの言葉。

 選択することは、気持ちの在り方で180°意味合いが変わってくる。

 何かが嫌だから違うところにいく。

 

 そうではなく、大切にしたいことに近づこうと歩んでいけばいい。

 そんな風に歩んでいたら、「嫌だ。」って思っていたものからも、自然といつの間にか離れているし、大切なことを近くで見る、感じ取るための選択をしたまでに過ぎない。

 それは逃げるではない。向かうであると思う。

 他者からの影響で動く前に、自分が動きたい方角も指し示せると迷わなくなるのかなもしれない。

 

 だから、時代や世代や出会いのせいではなく、「自分がしたいことはなにか。」ということに近づこうとしているかどうか。

 そうした視点で歩むことを大切にしたいし、そうした視点を自分の経験と絡め、子どもたちにも伝えたい。

 それが少し先を生き、経験したことのあるものができる唯一の学びな気がする。

 

 でも1番は、世の中がレッテルを貼るかどうかなんて、正直どうでもいい

 そんな風に思える人が増えてほしい。

 正直、そんなレッテル貼りに構っている暇はない。と言えるほど、やりたいことや1回の人生では時間が足りない!と思えるくらいに大切にしたいことが見つかる、そんな魅力的な人が育つ”教育の場"にしたい。

 色々な色が輝きを放つためにキャンパスは白い。

 学校も真っ白で待つ!その勇気が必要だと思う。

 

「準備してあるもの」と、「用意がしてあるもの」

 この準備と用意の意味合いのちょっとの差が、子どもたちの可能性の広がり方には大きく関わると思っている。

 ”願いや思い”を具体的にしていくため、具体的に動いていくことをやめない。

 何かの要因があったから動くこともあってもいい。

 でも、それはあくまでもきっかけなだけであって、その時だけ乗り越えられればいいような選択も時には大事だが、どんな状況下でも大切なことはいつでよ、どんな時でも動くべきだと思っている。

 

 今やれること、やりたいこと。

 一人ではとてもじゃないけど抱えられない。

(一人でできることくらいならそもそも悩まないか。)

 だから、仲間がどれだけ大切か。

 

 自分にはできないことをできる人。

 自分にはない感覚をもっている人。

 自分がしたことないことをしてきた人。・・・・

 

 世の中にいる人、みんなに話を聞きたい。

 それには大人も子どもも関係ない。

 今やれることに全力を注ぎ、その経過を次回書きたい。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 ほんとうに遠回りですが、20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。

 家庭 ×  教育 ×   社会 ×   環境 ×   熱意 = 平和  

 人と人・人と環境を紡ぐblogを目指して。

「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。

 

 次回 :「オンライン学習とオフライン 〜いつ飲み屋さんに行けるんだろう〜 」

 今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。

 @mucchuart