何のために"考えられる人"になるのか。
生み出すことと楽しむこと
「はい、撮りますよ〜。パシャ」
最近、娘がcameraに興味をもっていて、よく撮ってくれる。
チェキ持って散歩に行ったのがよかったのかな?
3歳が撮る写真は本当に魅力的で、視点や構図が大人には撮れないことをしてくれる。
きっと自分自身も、小さな頃はこうだったかな?
娘の"アート思考"をずっと大切にしたい。共にその思考力を高めていこう。
ピカソも言っているように、もともと人はアート思考を持っているはず。忘れてしまっているだけ。
もう一度呼び覚まそう!
写真好きな娘に何枚でもどうぞ!としてあげたいが、チェキのフィルムって安くはないですよね?
デジカメや一眼レフもいいけど、3歳の娘には重いのと機能性とを考えると・・・。
「う〜ん!何がいいかな〜。」とひたすら考え、試行錯誤を繰り返すこと2日。
「よし!画用紙カメラだ!」となりました。無限想像film。最高です!
それをon iPadにするとリアルな撮影も可能に!
これだーーー!となった。
ここで大切だな。と思ったことが、
「う〜ん!何がいいかな〜。」と考えている時の自分と。
「よし!これだー。」と完成した後、娘と夢中に遊んでいる時の自分。
どっちの時間も最高だな。と思ったこと。
人はメーカーであるし、新しいクリエイティビティーを育むため、教育現場に様々な手法や教育観が溢れかってきている。
でも、その本質として、なぜメーカーやクリエイティブな人材の育成に注目が集まっているのか。
図工科から、それに向かうためのSTEAM教育や環境設定としてレッジョ・エミリアの視点を大切にしているが、それができることが決して目的ではないということ。
言うまらば、その先にあることをねらいたいのだ。
それがきっと上記の通り、自身が感じたことなのだと思う。
考えられる人・作れる人であることは通過点で、その先の楽しめる人という視点が絶対的に好きである。
でも、この考えられる・作れるという過程がものすごく大事で、1から自分たちにしかないものを、自分たちにちょうどいいものを生み出すことが本当に楽しいと、そのあとは自然と楽しいのだと思う。
そんな作る前から、作っているときから、それを使っているときも、そのあとも楽しめる人になってほしい。
そんな願いをもって、また図工の楽しい時間を考えたいと思う金曜日の夜。