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[小学校 図工科の授業] 対話・共創・繋がりを通して、社会変革(SDGs・IoT等)をみんなで考えるblog @話題提供

忙しさを選んでみる。

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活動拠点を幾つにするか

 幼少期の「習い事」について、皆さんはどう捉えていますか?

 

「学びは、受験勉強のためだけにあるものではない。」本当にその通りだと思う。

 “学び”は、いつ何時でも自分自身の生き方を体現しているものになっているべきだし、大切な何かを守ったり、笑わせたりするための新しい発想や感性を得るためにしていくべき過程だと思っている。

「なんのために学んでるの?」と問われたら、「人を笑顔にするためです。」わたしは、そう答えたい。

 

 がむしゃらに勉強をすることで得られることもあるだろうし、本気で頑張った経験は“いつか”活きてくる。CMや広告にもありそうな言葉だが、この“いつか”という言葉が曲者だと思う。知識はパズルのピースなだけであって、その“ピース”を連ねてどんな絵を描きたいかがないと、作品として成り立たない。そんな感覚を持っていつも教育活動に取り組んでいる。知識がたくさんある人ほど、描ける額が大きくなるとは思う。(創造できる範囲の広がり方が違う。)

 でも、その“いつか”という名の「描きたい未来や創造」の絵がないと、せっかくのそのピース(知識)を持て余してしまう気がする。

 「描きたい絵」が見えてくると、きっと「あとどんなピースが足りないか。」が、なんとなく自分の中に見えてきて、そのピースを持っている人に出会いたくなるし、自らそのピースを作りたくなっていくのだと思う。その過程に必要なのが“学び”。そんな気がしている。

 この‘‘知識と創造のバランス‘は、本当に大切にしたいと思っている。どちらかに偏ることなく、本気でどちらもを楽しむこと。

 偏ると、“楽しむ気持ち“が欠落し、苦しいとか辛いとかの感情が出てきてしまうと思うから。

 

 話は戻り、「習い事」へ。

 4歳の娘と「体操教室の体験会」に行った。人間の素地を作る大切な要素「体験と経験」を得るために。

 まだやったことのないことや見たことのない景色・聞いたことない音・触ったことない感触…「未知との出会い」は人を豊かにすると思う。しかし、そうしたこととの出会いが後々に“強制された学び“になってしまっては、そうした感性と出会ったときに、感じられる感覚にとても大きな異なりがでてしまうと思う。

 夫婦共に「本人がやってみて、どうしたいかだね。」と話しているため、決して急がず、強めず、相変わらず多様な経験に共に触れていこうと思っている。そんな娘の成長期とともにいる中で、最も大事にしたいのが、大人側も「未知との出会い」をし続けていく、わくわく感である。

 がむしゃらに「未知との出会い」を求めることもあってもいいのかもしれないが、「描きたい未来や創造」に必要なピース探しの旅。そんなイメージで大人?というか意思を思った時点からは、人はそう歩んでいくといいのかな〜。なんてざっくり思っている。

 そのため、生活の中に幾つの「活動拠点」をもち、そうした「新しい世界」とどう出会っていくかは、多様な選択肢の中から「選べる忙しさ」として大切にしていきたいと考えている。

 

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「選べる忙しさ」 〜ピースを集める旅〜

 「忙しさを選んでみる。」というのは、おごった意味ではなく、新しい「出会い」を求める「活動拠点」への旅のことを指したい。

 ライフワークが絞られた拠点しかない場合、新しい感覚に出会える可能性は低く、もしかすると単調なリズムが生まれていってしまうかもしれない。それは決してルーティーンのようなポジティブなものではなく、(ルーティーンは、何か仕掛けているときに必要なもので、生活習慣とは一線があるように思う。)作業としてこなす「習慣」の一貫のように。

 

 「選べる忙しさ」として記載したのは、そうした「活動拠点」へ参加したり、体験したりすることは、自分が“選択する“という「行動」を取らなければ、何も動き出さないが、“考えて“、“選んで“、“行動”してみると“気持ちのいい忙しさ“と出会える、という意味を込めたいと思ったからだ。世の中には“選べない忙しさ”も、きっとあるのかもしれない。でも、後からでもそれらも取り込んで、プラスの意味に変化させ、自分の「描きたい未来や創造」に必要なピースにできたら、それは素晴らしいことだとも思う。それがきっと「心の強さ」なのかもしれない。

 

 気持ちのいい忙しさに触れている時は、“疲れない。“そんな体験、みなさんもありませんか?

 

 やりたい!知りたい!ということと向き合っている時、人はものすごく満足し、あまり困らないのかもしれない。肉体的な疲労は蓄積があるのかもしれないが、心の疲労が少ないと「行動」は早まる。多少の体の疲れも、心のわくわく感によって連れて行かれる。そんな感覚が好きなのかもしれない。

 北海道の大学生の希望に満ち溢れる講演を聞いた。講演者の今野菜優(@nayu konno)さんは、「行動」から次の「行動」を生み出している。行動した人にしか見えない、行動した人だからこそ見える新しい課題に出会い続けていくのだと思う。それに楽しさを覚えた菜優さんの成長は止まることはないだろうなと、講演を聞いていて確信した。

 本当に共感したし、尊敬した。学びに年齢は関係ないし、常に自由であるべきだと本当に強く感じた。これからも活動に期待しつつ、学びの旅を続けていれば、いつの日か会えそうなそんな気さえした。

 

 以前にも記載した、「準備と用意のバランス」を大切に教育活動に日々取り組んでいる。

 

 ・準備はレール(教員のエゴ) → 用意はイメージ(学び手の選択)

 ・本筋はねらい(一定の達成点)→ 遊びは工夫(個々の相互承認の体現)

 ・目標は達成点(評価ありき) → 目的は過程(「描きたい未来や創造」の想像)

 

 こんな風にマインドを変化させて教育活動にあたっていると、嬉しい変化とも出会える。

 それが人の「自主性や自発性」である。20歳以上よりも柔軟な発想をもつ10歳たちは、環境設定があると“自分の意思”をしっかりと表現することができる。そして、それに必要なことを信じられない速さで吸収し、表現してくる。やっぱり天才だ。

 「子どものような絵を描くのに一生かかった。」ピカソの言葉の意味を、勝手に解釈し、「ふっ」と笑う自分が気持ち悪いなと思う日もあった。(笑)

 

 プログラミング学習が教育課程に入ったが、人をプログラムするような学びにだけは、絶対にしたくない。

 “お祝いの会“(お誕生日でも、結婚式でも、入学式でも何でもOK)で、プログラム1番〇〇って用意する、そのわくわく感だけでも感覚として体感できれば“学び“にもなるかな…。誰かを祝いたい!そのためにプログラム(相手に伝えたいことを整理したこと)を考える。そんなことから学びに入っていけたら良いと思っている。

 習い事も、教育課程も、はじめは一定程度整っていることを知ることから入ることが多く、そうした面白さとの出会いもあると思うが、それが形式だつ(強制や習慣)と途端につまらなくなってしまう。

 世界は本当に広い。そのことを大切に、娘と奥さんをともに学び続ける人でありたい。

そんなことを思う日曜日の朝でした。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 ほんとうに遠回りですが、20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。

 家庭 ×  教育 ×   社会 ×   環境 ×   熱意 = 平和  

 人と人・人と環境を紡ぐblogを目指して。

「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。

 

 次回 :「社会と繋がる教育活動 〜 町を丸ごと学校へ 〜」

 今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。

 @mucchuart