Art communication = education × mucchu × artlife’s @design blog.

[小学校 図工科の授業] 対話・共創・繋がりを通して、社会変革(SDGs・IoT等)をみんなで考えるblog @話題提供

Internet内は、society1.0から2.0へ?

f:id:mucchuart:20200531001408j:image

さて、どこに合わせましょうか?笑

 人はいっぱいいる。

「世界平和」は目指すものじゃない。なるものだろうな。

 自分のプリンシパルとしてあるだけ。目指している!と、銘うつとそれに向かっている状態の自分に満足し、気づかぬうちに囚われてしまっていると思うよ、自分。

 

 しかし、その願いの実現には見つめていく世界観が世の内側には、とても多いということが最近よく分かるようにようやくなってきた。

 先駆者が見ている世界観には、一周回ってくる未来予知のようなものがあって、きっとその予知が見えるからこそ臆病になり、結果謙虚になれるのだと思う。何かを成し遂げている人の本質は、謙虚さに凝縮されている気がする。

 かたや現実、目の前の論議はまた形が違う。身を置く場所、語ることの質・量、直近のことに目を向けていることが多い。

 その両端を複雑化させてたのは、紛れもなくinternet社会だと思う。

 さらに言えば、その中の匿名という手法。ラジオのペンネーム〇〇さん(過去1番印象に残っているのは「太陽は」さん)の頃は、扱える件数に絶対的な制限があったからまだよかったのかもしれない。ラジオ局に届く葉書全てに対応できる尺が無限にある訳じゃないから。

 しかし、internet社会は違う。いつでも、いくらでも、誰から誰にでもコンタクトや発受信が可能になった。

 人から人へ何かを伝えようとしたときの時代変化を考えたい。

 society1.0から考えたら、人から人への言語・何かしらの書記・雰囲気・表情を必要なご近所さんと共有していたのだろう。

 その後、伝言板や鳥や馬による手紙、郵送業・飛脚、ポスター、新聞、電話、ART、音楽、TV、そしてinternet。さて次は・・。

 コンタクトが図れることが悪いことではない。その有用の仕方が世をねじ曲げているのが現代だと感じる。

 菅田将暉主演のドラマ「3年A組」のラストシーンが必要になった時代なのだ。

 

 情報過多な時代、SNS疲れですよね。

 自分が欲しいなって思ってから情報を探す行動と、求めてもいない情報に意識を無意識に持っていかれているのと、1日で換算したらどっちが多いでしょうか?気づかない間に、その情報過多な渦にのまれ疲れている人は本当に多いと思います。

 

 でも、internetがある現実社会はその進化が止まることはないでしょう。もっと知らないうちに疲れる人が増えるかもしれない。

 5Gにより、いよいよの5.0時代に本格的に突入する。

 勝手ながら、現実社会とバーチャル空間を分けて考えてみると、現実はsociety5.0を迎えるが、ではそのinternet上のバーチャル空間の世界の中にいる人類は、歴史として見たら今はまだ現実社会がマンモスを個々が追いかけていたあのsociety1.0時代に近いのかもしれない。

 しかし、このコロナにより急速早まった感覚がある。それがinternet上で人と繋がることへの軽さだ。

 NEWS picksの対談でキンコンの西野さんやオリラジ中田さんが言っている「オンラインサロンを集落と位置付ける。」とする動きが始まっているとするならば、聞いていてそれはインターネット上の土地取りが始まりつつあるように思えた。

 バーチャル空間といえど、土地が存在し始めている。それはinternet時代のsociety2.0、現実社会で言えば弥生時代の米の土地合戦と同じように思える。

 ここからが本当の課題で、現実社会の歴史を子どもたちと話す中で、「縄文時代長っ!」は絶対に理解しなくてはならない。

 なぜ長く反映したかは当たり前だが、差がなかった?ケンカはあっただろうけど差はなかったのかもしれない。

 となれば、いよいよinternet時代の急激な加速は、この"集落"という考え方から始まっていくような気がしている。

 弥生時代からたったの2000年で約20もの時代変化が起こった。これは間違いなく、領土の奪い合いが始まったからである。

 「歴史とは結局、時の権力者が誰で、土地を牛耳っているのは誰かわかれば分かる。」なんていう悲しい歴史の教え方がシンプルで分かりやすく少なってしまう程に。

 

 仮にinternet上の土地の奪い合い、所有が始まっていくことになったとしたら、いよいよバーチャル居住者が生まれてくる。

 それはもはや情報過多ではなく、住み着く現実世界になる日もそう遠くはないのかもしれない。

 そしてまた歴史は繰り返され、インターネット上の総理大臣や大統領が生まれる悲しい結末がありそうな気がしてならない。

 

f:id:mucchuart:20200531001322j:image

結局は、行動していることが考え出し、答えになる。

 行動は、がむしゃらだけじゃだめで、裏付けや根拠がいるし、信念に向かうだけの当たり前の努力がものをいう。

 口だけならなんでも言えるか。  

 Shaw shankだって、出られたーを伝える映画じゃない。

 哲学的なevidenceがすごく詰まっている気がする。

 

 オンライン学習や探究のことを語り合っていると決まって「全員が恵まれているわけではない。」・「みんながやりたいことがあるわけではない。」の話に必ずなる。

 決してそれがいけないわけではない。でも、そこにいつまでも足踏みをしていたら教育の世界は絶対に変わらない。

 世の中がこれだけ変わろうとしているのに、今動かないで後にその課題を回していいのか、いいわけない。

 休校で時数が少ないからばんばん算数やらないと・・・。よりも、教えないといけない現実世界の変化があると思っている。

 教育者の本質は、目の前の馬鹿なことを全力で笑い合える空間と、先の人生をちゃんと語り合える信頼だと思う。

 そのどちらも、決して決められたことの書かれた指導要領や教科書には載っていない。それを探し続けるのが先生の仕事のはずだ。

 

 何かを行うなら、何かが起こりうるのは当たり前のこと。

 「利は義の和なり」最終的になにがしたいのかのために、足踏みはもういい。

 目の前のリターンではなく、遠くに控えている世界のために動くことを考えながら歩いていないと、internet時代、第2ステージ"住居"には到底、対応できなくなる。エビデンスもない空論だが、教育界の危惧はここにあると思っている。

 目の前の人が置かれている状況を、無視して進むことは決していいことを生まないことは分かる。

 だからこそ、情報過多な時代に踊らされることなく、そしてますます変化するsociety5.0時代をるんるん気分でポップに笑顔でみんなと歩めるように、毎日勉強したいと思っています。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 ほんとうに遠回りですが、20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。

 家庭 ×  教育 ×   社会 ×   環境 ×   熱意 = 平和  

 人と人・人と環境を紡ぐblogを目指して。

「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。

 

 次回 :「高司という男」

 今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。

 @mucchuart