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[小学校 図工科の授業] 対話・共創・繋がりを通して、社会変革(SDGs・IoT等)をみんなで考えるblog @話題提供

「SDGs」を自分ごとにしていく 〜 12 つくる責任・つかう責任 〜

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「手段が目的化してしまわないように。」ものごとへの捉え方で存在価値も変わる?!

 昔、ロンブーの淳さんが深夜の番組で「タイムマシンを作るには」ということを、専門家と面白おかしく談議していた。

 もう10年以上前のことだが、インパクトが大きかったから大体覚えている。

 その中で、"時間は絶対じゃない"というような話があった。仮に宇宙も含め、存在しているもので絶対をあげるとするなら"光"である。

 これよりも速いものはないから。魅力的な話だったな。

 右手と左手を上げ、片方の手を振る。

 振った手の方が"時間を長く使えている。"という感覚になりますか?

 この問いに、私は瞬間的に「はい。なる。」と思ったのだ。

 この前提を理解した上で、光速ロケットに電波時計を積むと、そのうちその時計は未来にいく。という理論だった気がする。

 すごく納得したことも覚えている。

 ドラえもんのタイムマシンのトンネル内の時計がねじ曲げられているのも、あの4次元ポケットの道具がすべて時間軸をいじってできていることもふまえ、そうした時間を弄れるものと捉える考え方は、そんなに摩訶不思議な話でもないような気がしている。

 もしも、光速で飛ぶロケットができ、それに人が乗れたら、もしかしたら未来に行けるかものしれないですね。

 

 今、マルチスキルを得ようと、自分なりに家庭、職場、コミュニティー、オンラインなど、それぞれの場で新たな楽しみを模索している。その中で、コミュニティーという視点について考えたい。

 はじめに「手段が目的化してしまう。」ということが、どのコミュニティーでも一度は陥ってしまう落とし穴である、ということを勝手ながら想定したい。

 本質的に人が求めていることは、至って単純であり、シンプルなものだ。

 例えば、「楽しい。」とか「幸せ。」とかいうことだけなんだと思う。

 それを求めようとして、様々な手段を模索していく中でその本来求めていたものが、手段の多さを追うことに夢中になり見えなくなってしまうことがあるのだと思う。

 初心はなんでしたか?って研修でよく聞かれるが、それが大事なんじゃない。

 立ち返ることはいいことだが、後退することではない。

 初心を聞くんじゃなく、今あなたがしていることは、どこにつながっていますか?つなげますか?の方がいいと思っている。

 なぜなら、本質は問うものじゃなく、すでにあるものだと思うからだ。

 何もしていない人なんていない。みんな何かしている。本当なら、もうそれで十分な気もする。

 よりよい未来ってなんだろう。それを作る使命感に追われ、自分や周りが楽しめない状態になっているなら、いっそやめた方がいいのかもしれないな。ということもよく考える。

 

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 と、立ち返りながら「つくる責任・つかう責任」について考えたい。

 自分なりの解釈だが、これは何も物のことだけをいっているのではないと思っている。

 システムやコミュニティーなども、その対象と考えていきたい。

 society1から進む中で、もっとも変化してきたのは物の質もあると思うが、人が織りなすコミュニティーの変化だと思う。

 このコミュニティーの変化を生み出す要因が「システム」だと思う。

 だから、一つのコミュニティーを作るにも、そこには責任が生じてくる。

 参加する人全員が満足いくことを常に考えること。それは最低限必要な「つくる責任」だと思っている。

 

 一枚の大きな模造紙の端っこに絵を描いて切る。あとは捨てる。

 

 一枚の大きな模造紙の白いところが一箇所もないまで絵を描き、ギャラリーに出展し、経年劣化で紙が破けるまで飾られ捨てられる。

 

 同じ模造紙一枚かもしれない。

 

 コンビニやスーパーで、「袋入りますか?」という言葉がなくならないと、プラスチック問題は絶対に解決しないと思う。

 消費者が意識を高く「袋は入りません。」と答えても、生産された袋が減るわけじゃない。

 結局、消費者が捨てるか、いつの日かその店が捨てるかになるしかないのだ。未使用ビニール袋を貯蔵しておく倉庫なんてあるわけないのだから。

 なので買い物のあとで「袋はありません。」と言われたら環境問題への関心の変化が見えたなって、きっと思うのだと思う。

 

 今はつくる側も10・つかう側も10の状態。

 この10:10の状態を1:1を10つかうにできればいいだけの話なんだと思う。

 つくるもつかうも最大値で行なっているから、ものが溢れる。感性も失われる。工夫もしなくなる。

 つくる側が1しかつくらなかったら、目の前にあるものをもっと大事にする。

 今回のマスクのように。今までマスクを洗ったことなんてありましたか?

 

 マスクでいえば、消費者が1を10つかっている状態なんだと思う。

 物の貴重性も含めないと、人の意識は変わらない。

 1のものを、最大限まで利用する。愛着がわく。工夫をする。

 

 コミュニティーを大事にしたい。そのためにどんな視点を大切にしたらいいか。

 もっと深く考えていきたいと思う肌寒い春の夜でした。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 遠回りですが20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。

 家庭 ×  教育 ×   社会 ×   環境 ×   熱意 = 平和 ・人と人、人と環境を紡ぐblogを目指して。

 「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。

 

 次回 :「SDGsを自分ごとにしていく⑤」

   次々回:「SDGsを自分ごとにしていく⑥ 」

   記載予定(仮):「mucchuというタイトルへの願い」・「高司という男」・「歴史を紡ぐものたち」

 今回のテーマと類似:「「自由」を得た後の選択肢」

 今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。

 @mucchuart

「SDGs」を自分ごとにしていく③ 〜 十人十色の学び 〜

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〜 十人十色の学びへ 〜学びの個別化

 3月2日から続く休校措置。

 昨日、北海道に戻られた大先輩ドンキーさんから電話があった。

 3月のジビエ屋さん以来の絡みだったため嬉しかった。こちらが「お久しぶりです。」…すらをいう間もなく、「なぁ〜よ〜、なにか動いてるかよ~。俺たちになにができるよ~⁉︎」と、聞き慣れた口調が懐かしく、でもその危機感が嬉しく、こちらも挨拶はそっちのけで神奈川県の教育現場の現状と対策、それと個人的にこの休校下で子どもたちにしていることについて話した。

 

毎日そうしたことと、時間が許される限り向き合うことにしている。そして、発信する。

 この事態は、世界が進もうとしているsociety5.0へと、超加速する要因となっている。

 こんなタイミングでこんな事態が起こりうるのかと思い、世界の裏側を覗こうとしてみると、人的な恐ろしいことが渦巻いているように思えて仕方がない。

 

 次回、今こそ、この"平等"という言葉の捉えを問い直し、"十人十色の学び"がいかにして、公教育の"現状の打破"に繋がるのかを考え記載していきたいと思います。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

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 次回 :「SDGsを自分ごとにしていく③  平等とは」

   次々回:「SDGsを自分ごとにしていく④  」

   記載予定(仮):「mucchuというタイトルへの願い」・「高司という男」・「歴史を紡ぐものたち」

 今回のテーマと類似:「「自由」を得た後の選択肢」

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 @mucchuart

「SDGs」 〜 18個目を考えるてみる② 〜

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SDGs⑩:人や国の不平等をなくそう
〜 何をもって平等というか 〜

「半分こね。」それは平等を表現する代表的な言葉。

 先日、我が家にポンデリングが1つあった。奥さんが娘とお買い物で買ってきてくれたらしい。

 私に、とは言ってくれるものの、こういう時は食べたい人みんなで食べた方が美味しいから「食べる人〜?」と聞く。

 娘は「はい!はい!はい!」と手を挙げながら走ってくる。微笑ましい。

 

 そのポンデリングは、小さな玉8個で形成されていた。チョコのコーティングもなされ、"theおやつ"といった感じに、食卓の真ん中に置かれた。

 さて、この8個の玉の分け方に"平等"ってあるのでしょうか?

 (*決して、その食卓中に今から書くようなことは考えてはいません。例です。その瞬間は「娘かわいっ♪」しかないですね。)

 

 2人はすでに、お昼にドーナツを1つずつ食べていたようです。でも、ポンデリングを一個取って置いていくれた。

 "お父さんの"というドーナツに付けられたレッテルは大人の話で、娘にとっては魅力的な玉たちだ。

 私はこういう時、絶対に一人で食べたくない人間で、一緒に美味しさをシェアしたいタイプ。

 奥さんにとって今回の場合は、結果はなったものでよい。もらっても、もらわなくても。

(*結果は、父4玉・母2玉・娘2玉となりました。美味しかったですね。)

 あくまでも例えのため、その時、その場で考えたわけではないが、振り返ってみるとその分かることの関係性は面白いと思った。

 

 平等ってなんだろう?という問いに、上記のような中から気がつくのは、"積極性とちょっとの譲り合いの間を楽しめるかどうか"なのかなって感じた。

 マイナス集団の場合、欲張って積極的なだけでも違う。譲り合っていても決まらない。なんでもいいよ、と待っているだけではことは進まない。

 これをプラスにするために"楽しむ"を入れてみる。

 積極的に「食べたい!」と笑顔で気持ちを伝える。

 その笑顔に「どうぞ、どうぞご一緒しましょ。」と笑顔で答えたくなる。

 楽しそうに食べている人たちを見て、「一緒に食べたいです!」という気持ちになり、輪に入ってきてくれる♪

*プラスな集団な気が私はする。

 取っている行動(分け合う)や立場は、マイナスの時も、プラスの時も同じだが、その印象は大きく異なる気がする。

 

 結果、平等とはものを均等に分けることじゃなくて、それに関わる人の心が楽しめているかどうかだと思う。

 もしも、このドーナツをわざわざキッチンから秤をもってきて、mg単位で分け始めたら絶対に美味しくないと思うし、いじりすぎてチョコのコーティングも剥がれ、分けた後悲しい気持ちになりそうな気がする。

 

  胃袋を満たすこと or   心を満たすこと

 

 あなたは、どちらが満足感を得られますか?

 ここの選択の大きな所は、胃袋の満たしは一人分、でも心の満たしは今回の例えで言うなら3人分ですね

 

 SDGsが世界目標の⑩番にこれを入れたのには、もちろんもっと広く多勢の関わる課題に向けてのメッセージがメインだとも思う。

 でも、その理念は一人ひとりの心が変わらなくては、決して達成できるものではない。

 もしも、上記のように、自分だけの満足感で行動している人が多いと、世の中への平等の広まりはどんどん遅くなるのだと思う。

 

 「取り合えば足りなくなる。分け合えば余る。」私は、この二分の考えだけにはしたくない。

 積極的に楽しく関わり合えば、みんなが同じ量じゃなくても、余らせなくても満足できる世界を創り出せると思うから。

 世の中には、同じものが同じだけあるわけじゃない。分けるとか、分けないじゃなくて、楽しめるかどうかだと思う。

 変な話、もしも食べる直前の分け合う最中

とても楽しいことがあり、心が満足になったら、もはや食べなくてもいいかもしれない。

 

 今回、食糧が絡む話で例えてしまったので、「SDGs②飢餓をなくそう」に触れてしまう気もするが、例えとして捉え、別の形に置き換えて考え見てもらえたらと思う。

 信憑性まではサーチできていないが有名な情報として、世界の上位8名の話がある。

 世界の総資産は約2京円。億の上の単位だ。

 この内の約50%1京円を、8人または62人が所有している。という話だ。

 

 どう感じるかは、それぞれであっていいと思うが、羨むことにだけ目がいかないようにはしたい。

 この8人は8人で、きっと信じられないくらいの努力や困難を乗り越えてきたであろうことや、日々その資産を巡って命の危機に晒されている緊張感を抱えていること。(宝くじで億単位が当たった人の中で「当てなきゃよかった。」と思う人も少なくないという。)

 平等という言葉を聞くと、「お金」というワードが出てきてしまうかもしれないが、それだけに固執してしまうのではなく、その人、その場所、その文化、季節や気候など、平等の形は様々あると捉えた方が自然な場合も多くあるように思う。

 暑い国が、寒い国に不平等だよ。と抗議しているような話はあまり耳にはしない。

 隣の芝生は青く見えるのかもしれないが、あくまでも隣であって、生まれ育つ環境に誇りを持つことに時間を有した方が人生は豊かになると思う。

 

「世界の果ての通学路」というDVDを、昨年の6年生と一緒に見て深く考え合った。

 登場する世界の4人の小学生たちの通学にフォーカスを当てたドキュメンタリーである。

 一人は、エベレストの麓の険しい山道を子どもたち3人だけで、約4時間掛けて歩く。途中、足首を捻り、平坦な道を歩くだけでも大変な状況になる。

 別の子は、アフリカの猛獣たち(野生のライオン、ゾウ、キリンなど)が住む草原の中を、約2時間走って通学する。送り出す母親は、毎朝欠かさず、神に祈る。子どもが無事に学校に着いて、ちゃんと家に帰ってこられますようにと。

 その他、生まれつき足を悪くしている兄を、弟2人が毎日、車椅子(ただし手作りの細いタイア)を押して歩く。しかし、その土地は砂地で、少しの力では進むことすらしない。その道を毎朝、約2時間である。

 最後の子は、幼少の頃から馬術を習い、学校に馬で通学する。騎乗された事がある方なら分かると思うが、何時間も乗っていると腰や足への負担は半端なものではない。

 「学校」という場に向かうということがまず命がけである環境が、同じ地球の同い年に起きている現実。

 それを見るみんなは、本当に真剣な眼差しであった。その顔をよく思い出す。

 

 でも、映像に登場してくる子どもたちは、みんなその通学中も共通して人と関わり、笑顔を見せる。もちろん編集もあるのかもしれないが、夢を語り、自分の生活を誇らしく話す姿に心打たれた。

 平等か、平等じゃないか、ものがあるか、ないかに置き換えてしまうと、永遠にいい方向にはいかない気がする。

 奴隷や人種差別の視点には、また違った課題があると思うが、SDGsの視点一つひとつに向き合うときに、大切にしたいSDGs⑩番への、今現在の私なりの考えである。

 

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「十人一色の学びから、十人十色の学びへ」

 〜 オンライン学習の平等とは 〜

 *次回、記載。

 休校している渦中のことは、記載したいことが多すぎる。現場での感覚は、時におかしくなりそうにもなる。

 さらに考えすぎて正直何度も書きたい、着手もしたが、すべて下書きに保存か、または削除してきてしまった。

 書いていると、思いが高まりすぎてしまう。

 そんな中でも図工通信mucchuを書いて、子どもたちにメッセージを送ってはいる。

 だが、今求められるのは、自分なりの行動だけで満足してはだめで、組織としてどうしていくかに全力を注ぐことである。

 教育のあり方の見直し。必要性。子どもたちの未来の見据え方。社会変革への対応。民間企業から見た、公教育の現場(学校格差はもちろんある。すでに素敵な取り組みをなされている学校も山ほどある。)

 毎日そうしたことと、時間が許される限り向き合うことにしている。そして、発信する。

 この事態は、世界が進もうとしているsociety5.0へと、超加速する要因となっている。

 こんなタイミングでこんな事態が起こりうるのかと思い、世界の裏側を覗こうとしてみると、人的な恐ろしいことが渦巻いているように思えて仕方がない。

 

 次回、今こそ、この"平等"という言葉の捉えを問い直し、"十人十色の学び"がいかにして、公教育の"現状の打破"に繋がるのかを考え記載していきたいと思います。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 遠回りですが20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。

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 「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。

 

 次回 :「SDGsを自分ごとにしていく③  平等とは」

   次々回:「SDGsを自分ごとにしていく④  」

   記載予定(仮):「mucchuというタイトルへの願い」・「高司という男」・「歴史を紡ぐものたち」

 今回のテーマと類似:「「自由」を得た後の選択肢」

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理想と「SDGs」 〜 18個目を考える 〜

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Sustainable Development Goals 〜 17個という現状で止めることは危険かも 〜 

 8年前に奥さんと出会い、3年前に娘が誕生し、自分の生きることへの意識は明らかに変わった。

 自分のためだけ、という意識からの脱却である。

 誰かを幸せにするには、自分も幸せでないとその思いは長くは続かない。人間はそんなに強い生き物ではない。

 

 誰かを幸せにしたいから、自分幸せでいる。

 この「も」が、2人と出会って生まれた一番大きな意識の変革だ。

 

 その変革は、器の小さい自分に、少し深さをくれた。そして、器から溢れても支えられる新しい器が出てきたような感覚がある。

 「人に優しく。」と、言葉では簡単だが、行動にするのには細心の意識と配慮、知識と行動が絡まないとできない。

 目の前だけ幸せにしていても、どこかの誰かを傷つけているかもしれないからだ。

 

 家族に、美味しい料理を作ろう!と、はりきって調理する。普段買わない食材に手を出してみるが、必要分以外は利用方法が分からないから処分してしまう。目の前の料理は、彩豊かで豪華かもしれない。

 でも、その無碍に扱われた食材の生産者は?それを回収するごみ収集者は?

 日本で破棄されたごみを燃やして処理されるのに利用される金額、年間約2兆円。

 量にすると、東京ドーム115杯分。その半分が食品。

 もちろん税金で行われている。1人1日約40円支払っている計算になる。

 「なんだ40円か。」ではない。一年にすると国民一人当たり、約1万4000円。10年で14万円だ。@環境省参考

 ここで大事なのが、「えっ、そんなの支払いたくない。」と、思ってしまう人の心を変えていくことだと思う。

 「支払いたくない。」という言葉は、自分のことしか考えていない発言や発想になってしまうからだ。このようなことを繰り返していては、この連鎖は決して止まることはない。みんな自分が好き。それはいけないことではない。

 でも、誰かを大切にしている"自分が好き"になっていく必要があると思う。

 「支払いたくない。」ではなく、自然の恵みを大切にしよう。生産者の思いを大切にしよう。回収される方の労力を軽減しよう。と、自然環境を含めた、他者意識の変換をしていくことが「世界平和」を実現する全員が今からできる1歩目だと思っている。

 

 世界がよくなってほしい。具体的にどうなってほしいか、よく考える。

 その具体を考えるようになってから出会ったのが"SDGs"だった。教材として回ってきたプリントに挟まっていたのが最初の出会い。

 読み始めたら4時間経っていた。自分の理想に類似している内容が、しかもとことんまで突き詰められて書かれていたからだ。

 「ここかも。大切にしたい活動は。」と思い、その後いろいろな資料を読み漁り、実践されている方にアポイントメントを取ってみたりを繰り返した。そのタイミングで、以前も記載した"農林水産省の方や大手企業の方たちの勉強会への参加"は、本当に大きかった。

 教科書や資料集を読んでいるだけでは、絶対に感じられない生産者たちの熱く、洗練された考えに触れることができたからだ。

 

 しかし最近、そんな大好きになっていった"SDGsの考え方"に、自分なりの疑問が生まれてきた。

 自分の描く理想にとって"この17個でいいのか?"

   もう少し突っ込んでみる。17個に限定せず、18個目があってもいいのでは。

 むしろ、世界中の人々がこの17個の指針しか見ようとしなくなってしまったら、SDGsの掲げる【だれも置き去りにしない社会をつくる】には届かなくなる気がして、この間少し怖くなった。

 SDGsはあくまでも分かりやすく方向を指し示しているだけであって、それをどう体現していくかは"地球人"に問いていると捉えてないといけないと思った。

 人の一生で、用意された17個の目標すべてに着手することは、時間的にも足りないかもしれない。

 生まれ育った環境や文化によっても、その項目に向かう意識は大きく異なる。

 でも、だからこそ自分ごとにするために書かれていることをやるのではなく、自分なりにSDGsを見直すことを、もう一度始めようと思っている。そして、18個目を考えてみることにしてみた。

 

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SDGs」 〜 18個目を考えるてみる〜

 ぜひ、この記事を読まれている方々にも一緒に取り組んでもらえたらありがたいと思っています。

 SDGsの「自分なりの18個目」を考えてみる。ということを。

 

 まず、自分が描く願いを書き出し、それが17個のどれに入るか考えてみる。

 私もやってみたが、その願いの多くは、17個の項目のどこかに入ることがある。

 (例:自分の願い「みんなが笑顔」→ SDGs⑩「人や国の不平等」・・・解釈:みんなが心として平等と思えたら、笑顔になれるから。)

 当然といえば当然である。国連に関わる博学者たちが練って作成されたものだから。

 でも、ここまでやってみただけでも、私はかなり自分ごとになった気がした。

 

 そして、そこからもっともっと自分に問いてみる。

 ・そう思うようになった根底は?

 ・今の自分のコミュニティーは?

 ・この時代だからこそ、届かせられるさいだいの位置は?

 ・具体的に取り組んでいる行動は?

 ・本質として大切にしたいことは? など。

 

 2020年5月現在の私の中で生まれた、18個目は『Earth mindを感じよう。』である。

 本来、一番に感謝すべき相手は地球であるという、基本に立ち返る考え・思いのこと。

 

 ねぜ、それを思ったかと言うと、我々人間は、創造力豊かで、生産性もすごい。だけど、その全ては生まれてこなければ体現できないし、地球が存在していなかったらその力は1mmも発揮できないからである。

 

 前回記載したように、手作りは温かいこと。散歩も手作りと捉えてみると、地球を感じるには一番の時間だと思う。

 普段、せかせか通り過ぎてしまう小道も、のんびり歩いてみると初めて気がつくことがある。

 こんなとこにきのこが生えている。鳥の鳴き声って、みんな違うな。とか。

 

 でも一番素敵なのが、3歳の娘にカメラの"チェキ"を預けて、散歩中好きに写真を撮ってもらう。

 すると、絶対自分では気がつけない自然に気がつける。

 まず見ている視点が違うし、発想が決められていない。きっと、私自身も3歳の頃はそうだったのかなぁ。

 レッジョ・エミリアの言葉にもあるように「子どもは100の言葉をもっている。でも、文化や環境がそれらを奪っていく。」

 そんな悲しい世界にはしたくない。そんな虚しい育児や教育はしたくない。

 大人こそ、童心を忘れてはいけないと思う。

 その童心とは「生まれ育つ地球がもつ、その魅力や不思議に好奇心をもって近づいてみること。」かな。

 ここが、snow peak さんが提唱されている「人間性」にも繋がる気がするし、露木志奈さんのmindにも深く学び、共創していきたいと考える私の出発点かもしれない。

 なんてことを考える、平日のお昼休憩です。

 

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「レッジョ・エミリア × Camp ②」〜 手作りって温かい 。〜

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手作りの良さ

 STAY × HOMEの期間中、何かと"手作り"で行ったものが多い。

 日頃なら、時間がないことを言い訳に、何かと売っているもので済ませてしまうこともある。

 料理やインテリア・雑貨の購入、通勤も(車移動のガソリン代を金銭と置き換えて)・・・などなど、日頃、当たり前に金銭で時間を買っていたことにも気付く。

 決してそれがいいとか、いけないとか言いたいのではなくて、手作りということを通して、"人やこと・ものと、向き合いながら過ごす時間"ができたということ。

 真っ直ぐから向き合ってみるからこそ見えてくることや、それぞれの本質に意識をもっていこうと思えた。

 この意識の変革は、一生大切にしようと思う。

 今後、この事態もいつの日か終息を迎え、前と似た生活に戻ったとしても、こうした意識は変えずにいようと思う。

 ・どんなことにも、意味が必ずある。

 ・"本質"に立ち返ること。     この2点は財産になる気がする。

 

 また、手作りのもう一つの良さとしては、"自分たちに丁度いいもの"ができるということ。

 部屋に溜まった文庫本や雑誌などがたくさんある。積んで置いておくと、下の方にある本はまず見なくなってしまう。

 でも、売っている棚を購入しても本の大きさがまちまちのため、収まりはしそうだが、なんとも不格好になってしまったり、デッドスペースができてしまったりもする。スマートじゃないとなんだか、やる気も・・・。

 スタイリッシュな収納にすることで手に取りやすくなり、読みやすくなると思う。

 まさに環境設定が好奇心を育てる、最近大好きな"レッジョ・エミリア"の考えに近い。北欧の幼児教育は日本の30代男子にも、確実にいい影響を与えている。笑

 適当な木材を購入し、持っている本の特徴を考え、適当に採寸し、適当に飾りながら作る。ここでいう「適当」は適してる方である。

 すると、「世界に一つの本棚」が完成した。物づくりの楽しさはここに詰まっている。

 今年の図工で、一番感じてほしいことを体感できて、心から嬉しい。何度もその本棚を見ては、いろいろな本や雑貨をわくわくしながら収納するのが止まらなくなっている。

(やはり愛着というのはいいものですね。)

 休校中、2枚の図工通信を出した。その中に、「学校が始まったら、みんなといられることを存分に楽しもう。そして、みんなと一緒に夢中になれることをたくさんしよう。」という言葉から始めて、「まずはみんなのことが知りたい。4時間でできる『世界で一つの〇〇』を作るための計画と材料を集めてみてね!@mucchu art」と記載しました。

 学校に電話をくれた子がいる。何か分からないことがあったのかな〜。と出てみると、「先生!イラストを夢中に書いていいですか?」という質問ならぬ、決意表明をいただいた。もう最高だった。

 学校がないことで見えてきたこともあるが、学校があって見えてくることが必ずある。

 図工専科。初挑戦だが、「アートは人の心を豊かにできるはず。」この、願いを大切に、一人ひとりの夢中と向き合う日が楽しみで仕方ない。

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「レッジョ・エミリア × Camp ②」〜 登頂して珈琲を飲みたい。〜

 環境が人の好奇心を駆り立てる。それを強く実感するのが"山頂珈琲"の時間である。

 小学生の頃の林間学校や何かの付き添いでいった登山を除き、自分たちで計画し、麓までいき、登頂・下山まで行った初登山。

 それは、小学校からの友だちの羽ちゃんと行った箱根の名峰「金時山」である。あの年齢にしては、大冒険だった記憶がある。

 登山のいろはも知らずで挑戦したが、若さからか、あっという間の登頂だったような気がする。きっと、その大冒険のわくわくが心を終始踊らせていたのだと思う。

 そこから登山の楽しさを覚え、素敵な先輩たちに出会い、20歳くらいから本格的な山にも登り始めるようになった。当然、金時山の時とは装備も違えば、志も違くて、でもわくわく感はずっと一緒。やっぱり好きなことに年齢は関係ない。

 とはいえ、まだ20歳。そんなにお金もあるわけではないので、安めのザックやトレッキングシューズを手にしたくらいだった。でも、身一つでも安心して付いていける先輩たちだったため、登山に夢中になっていった。

 そして、何度目かはさだかではないが、いよいよ出会ってしまった。

 そう「山頂珈琲」である。

 

 山梨県の名峰"瑞牆山"、巨大な岩岩の間を縫って歩く山道は迫力満載。3mはあろう岩を、少ない突起を見つけしっかりと一歩一歩登っていく。初めての岩登りで、とてもわくわくしたことを覚えている。オベリスクが有名なお隣の金峰山も含め、新緑も深く、自然豊かな山が連なる。その辺り一体の山々の特徴は、山頂部分に着くと、一気に視界が広がり、巨大な岩のオベリスクが登場することだ。

 そこに腰掛けて山下を眺めると、よくこんなところまで来たなぁ。と自ら感心してしまうほどだった。

 疲れを癒し、もってきたおにぎりを食べようとすると、目の前のお二人が何やら器具を取り出す。

 大窪さんと長谷川さん(長谷兄)である。

 そのお二人は、なんと山の天辺でお湯を沸かし始めたのだ。あの頃の私には、衝撃以外の何者でもなかった。

 (今では「山飯」なんてカッコつけて、よく調理をしてしまうが・・・。天狗岳ホットサンドメーカーはもう、もっていかない。)

 

 そして、大窪さんはレトルトのカレーとご飯を温め、「食うか?」と一口くれた。もはやここは銀座の高級店か!と思ってしまうほど、鳥肌を立たせながらカレーを食べたのは、あれが初めてだ。

 その後、のんびり岩に座っていると長谷兄の方から何やらいい匂いが。なんと「珈琲だ。」

 20歳そこそこの時は、コーヒーより牛乳やジュースの方が好きだったが、そのランキングが大きく変動した。

 自らの足で登ってきた山の天辺で、あたりの山々を見ながらいただく"手作りの珈琲"。これが私が登山に引き込まれた所以の一つになったことは間違いない。

 今では、珈琲が好きなので、豆屋さんに行って選び、ミルで挽いて、フィルターで淹れたりもする。いろいろ試して飲んでみて、深入りが好きということが分かったが、体調が良くないとふらっとするときがあるから飲める条件も満たすと考えると、やはり深煎り珈琲は好きである。豆の原産地に行ったこともないし、生の豆を煎ったこともないけど、珈琲が好き。

 だけど、やっぱりあの日、あの場所で飲んだ珈琲の味は、忘れられない。

 このお二人の作業は、間違いなく"手作り"だった。なぜなら、温かかったからだ。

 心を温めてくれるもの、それが手作りだと私は思う。

 値段に決して変えられないもの。そういうものこそ、人の心を温めて、豊かにすると思う。

 環境が人の心を掻き立て、好奇心を煽り、感情を豊かにする。

 レッジョ・エミリアの願いは、たとえ国や文化・環境が違っていても関係ないのだと思う。

 【イタリアのような素晴らしい建造物や文化だからできること。】と勝手に決めつけてしまわず、ちょっと顔を上げてみる。

 心のもち方一つで、そうした温かな環境と出会えるはずだと、私は思う。

 

 こんな事態の中だからこそ、ちょっと顔を上げて、みなさんもそんな発見を見つけて欲しいと思っています。

 

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   記載予定(仮):「mucchuというタイトルへの願い」・「高司という男」・「歴史を紡ぐものたち」

 今回のテーマと類似:「「自由」を得た後の選択肢」

 今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。

 @mucchuart

“理想論”で止まってしまわないように

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不器用でも、かっこ悪くても一歩を踏み出してみる

 「あなたは何がしたい人ですか。」日々、自問自答している。

  世界を平和にしていきたい。

  そのために…

  ・自分が笑顔でいられる楽しいことをいつも考える。

  ・一番身近な家族が笑顔で生活できるように、大切なことを行動に移す。

  (・おはようの挨拶を大事にしたい!家事は笑顔と安全を生み出すから、いくらでもやりたい。)

  ・どんな場でもそこにいる人を楽しいことに巻き込めるものは巻き込み、笑顔の連鎖が起きて欲しい。*バタフライ効果期待。笑

  ・楽しそうなことをしている人を見つけたら、やっていることに興味をもち"にゅる"っと入っていく。

  ・社会変革に対応できる根拠を模索する。今、オンラインの活用意義を、ここに一番感じている。

   普段、絶対聞けない話がさらっと目の前で聞けるこの時代に感謝。

  ・平和を目指そうと掲げる、SDGsの動きを調べたり、やってみたり、落とし込めるようにアイデア化してみる。

  ・そうして自ら納得・見解・解釈したことを「本当に必要なこと」と勝手に打ち出し、blog に残したり、仲間や職を通して世に発信し、共感・共同、フィードバックをもらいながら、もっと楽しくなることを考えていきたい。

 

  こんなことが今、生活の中でスパイラル化している気がする。

  この渦の原動力は「行動」にあると思っている。

 

  理想論はいくらでも言える。

  無限に話せる。

  でも、社会のニーズを置いていったら独りよがりになってしまう。

  理想を語り、自らを鼓舞することは必要だと思う。

  でも、誰かと語り合ったり、誰かに宣言したりしたら、決してマジックワードになってはならない。

  "不器用でも、カッコ悪くてもいいから一歩目を踏み出してみること"

  大事なのはここかな、と思っている。

  踏み出すには力も、時間も、精神も、努力も必要になってくる。

  でも、それが先人の作ってくれた現代にあぐらをかかず、動き出すための最初の労力なんだと思う。

  現実でも、立ち上がる瞬間は「よっこらしょ。」とか、おじさんっぽく言ってしまうけど、立ってから「やっぱり立たなきゃよかった。」なんてことは考えない。(たった瞬間に頭上にあるものに頭をぶつけたら話は別ですけどね。)

  お風呂に入るのだるいなーと思っていても、入って出た後、「あー、やっぱり入らなきゃよかった。」なんてことは考えない。

  

  動いてみて、初めて感じることを大切にしていきたい。

お疲れ様です。
突然ですが、明日土曜日、お時間ある方で
「アフターコロナ。社会の再開後、職場や世に(子どもや同僚)に提示、発信してみたいこと。」として、プチ発表会しませんか?
この事態で、例年とは違う始まり方を強いられることが多いと思います!
だからこそ、慣行なことではなく、やるやらないはもちろん別にして、新しい発想をお互いに増やしましょう👱🏼‍♂️
本当に軽い気持ちでやりましょう!
制作しなくちゃなんて思わず、言葉だけでも、手書きのメモでも📝

イデアの共有をしましょう!もちろん、聞くだけの参加もOKです!

例:小学校なら教材でも語りかけでも、学級経営でも、学校改革でも!
みなさんが提案すること、すべての話を認め合いながらオンラインTedでアイデア共有しましょう!
提案者には、アドバイスではなく、称賛を^ ^

○スケジュールは、明日の朝9時に一度参加の方で挨拶を交わし、夕方8時〜9時の1時間で共有しましょう^ ^
朝も、夕方も可能な参加時間だけで構いません!途中入場、退場もちろんOKです!

*参加の方は私の個人ラインに、その旨お伝えください!
Ted LINEですと、混み合ってしまうので。
参加、不参加どちらも全く気にしないでください^ ^      @mucchuart

 本日、オンラインで行動してみる。きっと不器用なことが露呈するが、それも大切な一歩目の労力だと思える。

 

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「レッジョ・エミリア × Camp 」① この掛け算の無限性にむっちゅ(夢中になること)したい。

 インドアな奥さんも、環境が整っている状態でoutdoorご飯を食べると「美味しく感じる。」と言ってくれる。

 本当に嬉しくなる一言である。

 outdoor好きは、自分の趣味を人に押し付けようとしすぎるって、前にバカリズムさんがアメトークで言っていた。

 あの一言には笑った。自分のことを言われていると思ったアウトドア派が全国にどれだけいただろうか。

「インドア派は、あなたに何かをお勧めなんてしないよ。」その通りだなって思った。笑

 

 Campあるあるの"場の設営問題"。それを聞くと、本当にもったいな過ぎる!といつも思ってしまう。

 いらいらしながら設営しているグループを見ると手伝いたくなる。

 その設営時間ほど、自分たちの環境を整えて、その日に感じたいことを全力でできる空間を作れる瞬間はないはずだから。

 何もしないをしにいく。自分がもっとも何もしなくていいような空間にしていく。

 

 今回は「ハンモックに揺られたい。」で考えたい。

 そこには準備が必要になってくる。(でも、ハンモックに揺られながら、何しようかなを考えてる時点で、至福なよだれものな気がしますが。)

 そのハンモックを、これ以上ないって場所を林道をかき分けて見つける。

 その最中、林の恵みに出会ったり、自然の音楽に酔いしれたりしたら尚、最上の至福時間だと思う。

 そうして、ハンモックを設置し、近くに読みたい本や飲みたいものを置き、日除けのブランケットやちょうどいい弾力・高さの枕になるものを用意する。

 周りの風景を見渡して、「あぁ、このなかでごろごろするのかぁ。」と酔いしれてみる。

 そしてハンモックに身を委ね、目を瞑り、音を聞き、揺れを感じてみる。

 「あぁ、もう何もしなくていいんだ。」

 

 その時間を満足いくまで楽しんだら、あとはお好きに過ごせばいいのだと思う。

 

 このことは、登山でもよく起こる。きつく険しい山に立ち向かっていると「自分はいったい、こんなところで何をしているんだ。」ってなることが山ほどある。

 でも、山頂にいったときの「あぁ、もう登らなくていいんだ。」の、あの感覚が大好きだ。*次回記載「登頂して珈琲を飲みたい。」

 

 どんなことも、一歩目を踏み出すことが大切で、そこから見えてくる世界観との対話を大切にしたいと思う土曜の朝でした。

 

今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 遠回りですが20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。

 家庭 ×  教育 ×   社会 ×   環境 ×   熱意 = 平和 ・人と人、人と環境を紡ぐblogを目指して。

 「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。

 

 次回 :「レッジョ・エミリア × Camp 」 ② *書きたいことが増えすぎていたけど、ハンモックのおかげでこちらに来れました。

   次々回:「SDGsを自分ごとにしていく」

   記載予定(仮):「mucchuというタイトルへの願い」・「高司という男」・「歴史を紡ぐものたち」

 今回のテーマと類似:「「自由」を得た後の選択肢」

 今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。

 @mucchuart

「みんな一緒」のわけがない。

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娘よ。いてくれてありがとう。

「すべての人が、すべての人の自由を互いに認め合う。」(自由の相互承認)

 先日、教育哲学者の苫野一徳さんが、デューイの話をもとに言っていた。

 

 私は幼少の頃、何をするにも“一番になりたい“とか、”みんなよりも目立ちたい“という欲求をもっていたのだと思う。

 その欲求自体がいけないのではなく、それを形にする際の表現の仕方がよくなかった。…思えば反省しかない。

 人の気持ちに気付けず、きっと自分では分からないところで、たくさんの仲間を傷つけていたと思う。

 

 小学生の頃に始めた、地元のサッカークラブも本当に仲の良い仲間と一所懸命に取り組んでいたのにも関わらず、その仲間たちに何の相談もなく辞め、地域のバスケットクラブに入った。

 その後、仲間との間に亀裂が生じたことに気づきはするも、その要因に目を向けられずのうのうと過ごす、本当の未熟者だ。

 でも、仲間たちはその後も関係を続けてくれた。それに甘え続け、20歳になってようやく自分の不甲斐なさに気がつくことになった。居酒屋に仲間に集まってもらい、胸の内を話した。「いいよ。」の一言に泣いた。

 法的に大人になってから、初めて泣いたのはその日のことだ。

 人の大切にしている空間、関係、志に土足で踏み込んでしまうことがいかに愚かであるか。30歳過ぎて、ようやく分かった。

 迷惑をかけて、ごめん。

 だからこそ、これから自分がすべきことに、ちゃんと向き合って歩もうと強く思う。

 

 自由を求めること。この”自由“という言葉の意味は、本当に単純なゆえに難しいのだと思う。

 強制的に手にしようとすれば、軋轢が生じる。

 遠慮しすぎていると、表現はできない。

 何もしていないのは、自由ではない。

 お金に操られているのも、また違う。

 いくら手に入れても、いつまでも満足ができない心の貧しさ。

 増やせないのに、時間が足りないせいにしてしまう。

 人の才能や努力に嫉妬して、他人事にしてしまう。

 

 "自由"とはきっと、そうしたことで手に入れられるものなのではなくて、人に認めてもらったり、人を認めたりすることによってのみ、手にできるものなのだと思う。だからきっと、1人では見つけられないのだ。だから幼少の頃に行く、学校?のような場が必要な気がしてきた。

 

 海外に一人旅に出かけて「自由だ!」と、叫びたくなる気持ちはよく分かる。

 でも、その旅はあくまでも旅で、自由ではなく、気分転換なのだと思う。

 それを自由と捉えると、時間が過ぎれば自由ではなくなってしまうことが起きてしまうから。

 

 人や自然など、生きとし生けるすべてのものと正面から向き合い、互いの存在意義を認め合うことができて、万物は初めて"自由"を手にするのかな。

 「魚魚魚〜魚を食べ〜ると〜・・・、魚は僕らを待っている〜♪」という歌詞があるが、考えが必ずあるはずだから否定せず、作詞者:井上輝彦さんにじっくり話を聞いてみたい。私は、魚が「僕らを待っている」とは、どうしても思えない。

 子どもたちの、"魚嫌い克服のための言葉"として選択したことでないことを願いたい。

 人に見てもらうために植えられた無数の花よりも、道端の脇にふいに咲いている花々と出会う方が好きかもしれない。

 水槽にメダカを飼う。行為よりも志が問われる気がする。

 

 世のすべてを手にしても満足いかなかったら、宇宙に繰り出しますか?

 もしも、宇宙のすべてを手にすることができたら…その人には何が残るのだろう。

 だから、自由とは、物理的な何かを手にすることではなく、人の心の解放感や開放感にある気がする。

 

 昔、茨城の勉強会に行って覚えている印象的な言葉がある。

 「恋愛と教育(育児)は似ている。

 今なら分かる。奥さん、娘の存在が私をそうさせているから。

 (大好きな人のことだったら、「何かしてあげたいな〜。」って常に思いますよね。恋愛の始まりの頃の気分が、ずっと続く。というか、向上していくから、維持するよりも楽だと私は思っている。) 

 それを万人が万人同士で織りなせるか、どうか。ここについては、またじっくり考えて書きたい。(掲載:万物が魅せる恋愛) 

 

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「みんな一緒」なわけがない。

 クローン開発って、何のための研究なんだろう。

 「一緒」を生み出すメリット?不老不死のため?いたら再生医療ができるのかな?

 技術としては、本当に凄いけど、やっぱり実用には踏み込んじゃいけない気がする。

 永久に、若く、健康な命が続く世界になったらどうなるのかな?

 感情は、もはやもてなくなる気がする。そこにAIのチップを埋め込んだら、それが人型ロボットになるのかな?

 

 私が学生の頃、受講してきた大半の時間は"一斉授業"だった。

 私は教員として働き出した頃、その受講してきた"一斉授業"がモデルだった。それしか受けてきていなかったからだ。

 でも、モデルではあっても、決してそれを好きではない子だったから、そんな授業ばかりでなく、受けもたせてもらった子どもたちといろいろ無理もしてきた。

 

 特に初任の頃の無理は、吐出している気がする。

 初任の頃、管理職にも、市役所にも、駅職員にも、保護者にも、確認も了解も得ていない状態で「駅前フリーマーケット」を開催した。本物の金銭のやりとりだ。そこに至る理由は、至ってシンプルだった。

 

 小学3年生、社会科の学習で"買い物調べをしよう!"という単元がある。指導要領では、【地域の産業の様子やお店の工夫・努力、消費者としての心構えや家計のことなどを知る。】ぐらいのことが記載されている。

 教科書には、いろいろなお店(小売店やマーケットなど)の、それぞれの利点を考え、工夫して買い物ができるといいよね。例えば、カレーを作るなら、どこでどんなものを買いますか?などの問いが載っている。

 「作りたい!」その一言から始まった。

 消費とはそもそも何か。自らが得たものを消費することのはず。「よし!まずはお金を稼ごう!」ということになったのだ。

 初任だったからなのか、あまりにも楽しかったからなのか、誰にも伝えずフリーマーケット当日はあっという間にやってきた。

 子どもたちと必死に商品を考え、自分たちの力で達成したいから親の力を借りず、今できる能力をフルに使って作り上げた商品や、見せられる特技、できるサービスなどが用意された。

 

 ・一生懸命に折った折り紙 1つ10円

 ・ストラックアウト場   1回20円

 ・肩揉み         5分10円 などなど。

 

 もう15年も前のことだが、はっきりとその温かな情景を覚えている。

 初めて売れた品は、地元のおばあちゃんが買ってくれた"鶴の折り紙"1つ10円である。歓喜の声が上がった。

 その後も、平日の昼間なので、人も疎らだがフリーマーケットは活気を見せていた。

 

 自分がもっと計画性をもっていられたら、大成功になったのかもしれない。

 アポなしだったため、通報が入ったらしく大慌てで走ってくる教頭先生のお顔が忘れられない。

 (その後のことはお察しの通りです。)

 

 でも言い訳がましいかもしれないが、子どもたちとの、すべての時間(授業も、準備作業も、運用も)に一切のタイムラグがなかったから、あの夢中感は作れた気がしている。

 もちろん今では、そうした提案が出たら絶対に申請書を書きまくる作業から始めるが、なんだかあのレスポンスで取り組めることが理想だな、って思うことは今でも変わらない。

 

 あれは、間違いなく一斉授業ではなかった。

 一つの壮大な「自分たちの力で稼いだお金で、地域食材を集めて最高のカレーを作ろう!」というプロジェクトに全員が夢中になっていたから。夢中になっているから、一人として同じ行動ではなかったから。

 そんなプロジェクトが立ち上がったら、教科書の中に学びが収まるはずがない。

 みんな必死だった。みんな楽しそうだった。

 

 何も言わずとも放課後に

 ・何店も回ってきて値段を聞きに行ったらしい。

 ・旬のおすすめ、地のもの、生産者の思いをインタビューしたらしい。

 ・稼ぐための品や工夫を家で一生懸命に制作したり、考えたりしていたらしい。   

 小学3年生が、自分たちだけで。

 

 安全性:もちろん心配もある。

 計画性:やっぱり事前に提出しなくちゃいけないんでしょうか?熱量はどこかに置いていかれますが。

    目の前に熱々のハンバーグがあるのに、油が固まってから食べたい人なんていないと思う。

 

 そこからはみ出せなかったのは、完全にこちらの力不足だったことは間違いない。

 でも、もしあのまま地域も、学校も、社会も、家庭も見守り、裏で支え、その過程を認めていたら…いったいどんなリフレクションが展開されたのかな。なんてことを15年経っても今でも思ってしまう。それ程までに、あの時間が魅力的だったのだと思う。

 まさに心の解放感があったから。

 

 この職は、がんじがらめな状態にあると感じている人は少なくないのかもしれない。

 私は気にするタイプではないですが、はみ出せば、子どもだけじゃない。大人もはじかれる。

 目立たず、はみ出ず、列の中にいられれば安全を手にできる場になってしまっているんだろうな。

 それに魅力はありますか?

 なければ生み出してしまえ。常にそう思っているので、失敗も多いですが。

 

 こちらが準備した内容を、そのレールに正しく乗れる反応をできる子がいい子なわけがない。

 教員やっていると、素直に子どもたちが話を聞いてくれると気持ち良くなっていってしまう所があるのは分かる。

 でも、もう私は前のような"一斉授業"には戻れない。

 モデリングのない教育の在り方に取り組んでいるから、本当に迷うし、悩むし、頭がおかしくなりそうになる。

 でも、それこそが教師のすべき学びなのだと思っている。

 

 人として、教員として、親として、マインドセットをアップデートしていくこと。

 時代とともに変わるんじゃない。その時代を生きる人の考え方、感じ方を認め合うために変わる必要があると思っている。

 

    今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 遠回りですが20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。

 家庭 ×  教育 ×   社会 ×   環境 ×   熱意 = 平和 ・人と人、人と環境を紡ぐblogを目指して。

 「大切なことを、大切にできる人」が増えていけば、世界が抱える課題は、あっという間に希望へと変わっていく気がします。

 

 次回 :「レッジョ・エミリア × Camp 」 *書きたいことが増えすぎて、全然こちらの方のタイトルにいけていません。

   次々回:「SDGsを自分ごとにしていく」

   記載予定(仮):「mucchuというタイトルへの願い」・「高司という男」・「歴史を紡ぐものたち」

 今回のテーマと類似:「「自由」を得た後の選択肢」

 今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。

 @mucchuart