Art communication = education × mucchu × artlife’s @design blog.

[小学校 図工科の授業] 対話・共創・繋がりを通して、社会変革(SDGs・IoT等)をみんなで考えるblog @話題提供

小学校教員である前に、一ひとりの人間であること。そして親であること。

f:id:mucchuart:20200422114515j:image
中途半端は0と同じ。

 5年前、児童と卒業式の練習をしていて頭によぎった言葉だ。

 中途半端にやっていることがあるのならば、きっぱりとやめてもっと自分にとって有効的なことに時間を使った方がいい。

 時間は無限にはない。人の一生には限りがある。

 

 大好きな言葉。「本当のリーダーとは、多くの事柄を成し遂げる人ではなく、自分をはるかに超えるような人財を残す人だ。」ホセ・ムヒカ元大統領のこの言葉を、私は一生忘れることはないと思う。職場に初めて後輩が入ってきた時に抱えたもやもやを一瞬にして吹き飛ばしてくれたし、自分がいかに小物であるかを分からせてくれた言葉だからだ。

 日本人の集団意識は恐ろしい。人と違うことをすることを恐れてしまうようにプログラミングされてきてしまったのだろう。

 「みんな一緒」という名の、国のための歯車を作るための言葉に。過去のその時代には、それが不可欠だったのだ。

 先人の努力によって、いまがあることへの尊敬は忘れてはならないことは前にも書いたが、そこにあぐらをかいてはいけない。

 国のために血と汗と涙を流してくれた先輩たちも、「絶対に私たちの時代が今のように過ごしやすくなっているように。」と願ってくれていたに違いない。だから今、私たちはこうして豊かな生活ができている。だからこそ、中途半端なことはやめて、一人ひとりが国のためでなく、人のため、環境のために動き出す時がきていると思う。

 「国とは人だ。」国が人を作るのではなく、そこにいる人々の考えが国を作る。漫画の言葉を借りれば、その通りだと思う。

 公教育はその確たるものだ。いろいろな都合や情勢があることも理解できる。しかし、ただあるものをそのまま受けているだけでは、人は本質として成長しない。成長しているような…、ただ流れに乗っているだけのような…、そんな風に人生を中途半端に生きてしまっていいのだろうか。私は絶対に嫌だ。

 親から受け継ぎ、子に受け継ごうとしている自分の人生は、重要な意味をもたなくては、親にも子にも家族にも失礼になるからだ。

 1人の女性ですら大切にできない人間が、世界を大切になんてできるはずがない。

 

 「みんな一緒」この言葉は、世界で一番安全を作るがゆえに、人の思考を停止させる。

 停止させた方が都合がいい人によって作られたのだろう。ある意味その人たちは天才だ。たぶんドイツの10人でしょうね。

 

 公教育の教育観に嫌気がさし、オルタナティブ教育を推進する団体が近くに設立された。

 イエナプランを中心としてた教育である。話を聞き、活動を見て思うこと。そこにいる人たちの真剣な眼差しと笑顔だ。

 やらされてるんじゃない。やりたくてやっているからこうした顔になるのだ。

 そこには中途半端はなかった。すべてが全力。圧倒された。もっと考えを練って生で体験しにいこうと思った。

 

 世界を見渡せば、まだまだ情勢が良くない土地もある。無理やり止めることはできない。変えられるとしたら心に残すこと。

 ボブマーリーが音楽で戦争を止めたことも、芸術が人の心を豊かにすることも。

 その両方を兼ね備えるバンクシーは本当に凄いと思う。いつまでも顔は出さないでほしい。前回書いた、分からないことの素晴らしさが現世界で一番つまっている人のように思うからだ。

 

 本題へ

「教科ごとのめあてを作るのではなく、人として出会った子たちに自分は(先生)何を伝えられる人間であるかをまず先に考える。」

 f:id:mucchuart:20200422114358j:image  

 改めてになるが、このブログを書こうと思ったのは、教育・育児を通して、世界平和に近づきたいからだ。

 でも、ブロガーである前に人間である。小学校教員である前に人である。

 その本質を大切にするために、よく自己分析をする。突然思いつくので壁に書いたり、チラシの超すみっこに書いたり。笑

 写真のようなことをやることを横文字でなんて言いましたっけ?

 

 小学校教員として、教科書や指導書とじっとにらめっこするよりも、間違いなく1人の人として一生で何がしたいかを考え、行動に移し、写真や紙に起こしておいた方がいいと思う。例えばCampに行ってやった焚き火や作った料理を写真に撮ってみたり、読んだ本で感動したことを文章にしておいたりしておくなど。それらがすべて教材になるはず。

 前回も登場した島本先生のお言葉で「見るもの・感じること、すべてを教材だと思いなさい。」その優しい言い方と共に、心に刻まれた言葉だ。本当の意味で価値のある教材かどうかは、それに向き合う人の心が大切であること。好きにもなれていない教材を勉強しても効率は上がらない。ましてや、そんな中途半端な教材を教えてられる子どもたちはたまったものではない。

 先生だって人間。失敗もするし、間違えたりもする。だけど、向き合う情熱だけは他の職業には負けてはならないのだ。

 なぜなら、相手にしているのは人であるから。

 人の本質は心の光だと思う。決して目には見えない部分である。だからこそ魅力的だし、神秘的なものなのだと思う。

 しかし、「みんなと一緒」だけでは自分の輝きを発することはできない。はみ出ることを恐れてはならない。

 

 そうして教員である前に人である。ということを重じて教員をやっていると、教科ごとのめあてなんて小事に思えてしまう。

 「単元を教えること」なんて指導要領のどこにも書いていない。教えるべきは領域であり、その領域は生きていくために大切にすべき知識や知恵・方法・人との関わり合いが書かれている。教え方の指定なんてないのだ。

 教科書を作れる頭のいい方達のことは決して否定しない。だけど、その人たちは過去に出会った子どもたちを見たその経験で教科書を作る。だけど、全国の教員が出会う子どもたちは一人として同じ人はいない。

 だから参考にするのはいいかもしれないが、それをそのままは使うだけでは、何も考えていないことと一緒だと思う。

 まさに「みんなと一緒 先生バージョン」である。そんな扱い方をされては、教科書を作った方達にも逆に失礼だと思う。

 目の前にいる子たちのこと一番理解していくことは、その人たちと出会った教員がまず始めにすべきことだ。互いに理解し合い、その時、その場、その人に合う学びは何かを一から考える。

 教科書にあるからそれをそのままやる。結果そうなったとしても、初めからそれでは教員として成長しない。

 仲のいい高司ちゃんが言っていた。「教員15年目でも、3年目からupdateしてなかったら実質3年目ですね。」まさにその通り。

 高司ちゃんの話は、特集でそのうち書こうと思う。*そのうち記載「出会った高司という男」

   updateしてこなかった15年目教員が得たものは、偉そうな態度だけだと思う。若手のみなさん、そんな人が近くにいたら上の言葉を伝えてあげましょう。伝えられなかったら、心に思っておきましょう。そして自分もそうならないように戒めにしておきましょうね。

 

 *今回、もっとも伝えたかったことは「先生(大人)、その鎧を脱いだら、あなたは何者ですか?」ということです。

 みんな本質は絶対にいい人なんです。でも、世間がそのありのままでいさせてくれないだけなんです。

 でも、みんなでその鎧という名の殻を破りましょう。革命を起こすには犠牲がいります。その犠牲は決して他人ではだめです。

 まず自分自身です。動き出すと怒られたり、馬鹿にされたりしますよ。でも、それすら力に変えちゃいましょう。

 クレームは最高の発想力ですから。暴走族が減ったのも世間の力ですが、あんな強い自己表現ないでしょうね。地球に優しい暴走族だったら残ったのでしょうが、そうなるともはや暴走族とは呼ばないのですかね。

 同じようにクレーマーがいなくなった時、世の中の思考は完全停止でしょうね。みんなニコニコだけした気持ち悪い集団の完成になってしまいます。まるでAI搭載のロボット型人形のように…

 

   最後にもう一度。「あなたは何がしたい人ですか?」全て背負ってるものを一度下ろして向き合ってください。私自身しょっ中それに向き合っています。みなさんがどんなに人で、何がしたい人か。ぜひ、よかったらコメント欄にて教えてください。

 自分にない感性を学ばせてください。

 

 次回 :「図工とレッジョ・エミリア 思わず行動したくなる環境設定」

 次々回:「続 レッジョ・エミリア  日本の教育現場に落とし込んでみよう」

 

    今回も、お読みいただきありがとうございました。

    @mucchuart