図工とレッジョ・エミリア 〜 思わず行動したくなる環境に 〜
ものからのメッセージ
小学生の頃からずっとバスケットボールを続けてきた。経験してきた中で、一番変化があった瞬間。
それは味方に「次のプレーへのメッセージを込めたパスをした瞬間」である。
どんなスポーツも、突然うまくはならない。それには練習という積み重ねがあり、それが何かをきっかけに化学反応を起こし、自分でも想像したこともないプレーに繋がったり、今まで見えていなかった景色がコート上に広がったりすることで、自らの限界を越え続けて獲得していくものなのだと思う。そうしたプレッシャーと常に隣合わせにいる"プロ選手"は、やはり物凄い心の持ち主だと思う。
当然そうした感覚はスポーツに限った話ではない。
ものにはメッセージがある。
ボールを持てば、投げたくなる。ペンを握れば、書きたくなる。真夏にキンキンに冷えたビールを持てば、…といったように。
当たり前だが、デザイナーさんたちは、そうした心理を踏まえて物の形をデザインしているのだ。だから、物から語りかけてくるのだ。
それは人工物だけでなく、自然のものも、その色・形であることに意味があるからこそ、伝わってくる感覚が何かしらある。
発信者・受信者の互いのニーズが合致すると、それが好きになっていくのかもしれない。
高校生時代の、とある地方のバスケットボール大会の時に、私はその化学反応を初めて感じた。私はガード(スラムダンクで言えば宮城リョータ"リョーちん"ですね。)で、コートの状況に応じて、またはチームの練習で決めていた型にそってパスを流していた。
しかし、ふとした瞬間「練習では、このパスの後ボールはここにいくが、もしもそこじゃなくこちらが見えている、よりよいスペースに仲間を誘導できたら…。」緊迫した状況の中だったからこそ、なんとか状況を打破するために必死だったからこそ、そう思えたのかもしれない。
そこで初めて、パスに"メッセージ"を込めてみた。見た目には本当に微々たる変化だが、状況を変えるには十分な変化であった。
それからは、シューターに「もうそこで打って欲しい時」は、縫い目ができるだけ整うようにパスをするようになった。もちろんそんな奇跡的なパスは、そう何度もできることではないかもしれないが、それを意識したパスかどうかで受け取り側に伝わるものがあるはずだ、と信じて出し続けた。
世の中に存在しているものには、それぞれに価値があり、必ず意味がある。豊かになりすぎた現代は、あること自体を当たり前に思うようになってしまい、そのもののもつ本質や価値までなかなか目を向けなくなってきてしまったのかもしれない。
(見方を変えたら、道端に落ちている小石や枯れ葉からも、もしかしたら誰も想像できなかった世界を創造できるかもしれない。といったように。)
教育や育児の中でも、そうした"常識"という概念に大人が囚われてしまっていると、道端で子どもだけなら見つけられたであろうその"ものからのメッセージ"を「はやく行くよ!」の一言でシャットダウンしてしまっていることもあるのかもしれない。
トトロが子どもにしか見えない、という設定はそうした純粋な心を表現しているに違いない。
大人が真面目な顔で「こないだ森でトトロを見ましたよ。」と会社で話しても、誰にも相手にされないのかな。
本当に見たのかもしれないのに。多少誇張しているかもしれないが、それが"常識という概念"なのだと思う。
本題へ
図工とレッジョ・エミリア 〜 思わず行動したくなる環境に 〜
レッジョ・エミリア教育。イタリアの北部に位置する都市の名から付いた教育法である。
人の名が教育法に付くことは多いが、都市の名が付くのはなかなか珍しい。そうした名が付くのにも意味があるはず。
インターネットに由来の記載もあるが、自分なりに読み解いてみると、その名にとても興味が湧いてくる。
街ぐるみで"世の中をよくしよう"とした人々の笑顔や逞しさが想像できる。
レッジョ・エミリア教育を自分なりに解釈し、そこから行動できることを抽出していきたいと思っている。
勉強は始まったばかりだが、レッジョ・エミリアを一言で言うならば"自然体"という言葉がよく似合うと思う。
前に記載したblogに、レイチェル・カーソン著書「センス・オブ・ワンダー」について触れたが、その内容に繋がることが、この教育法には数多くあるように思う。ものも・ことも・自然も・人も…本来あるべき"自然体(ありのまま)"を見つめることが、特に似ている気がする。
型を決めないからこそ生まれる"創造性"と"脆さ"
「自由」という言葉には、可能性と危険性が備わっている。
図工で「今日は自由に絵を描きましょう。」と指示した場合、これは決してクリエイティブな行動や発想を生み出すとは思えない。
ただの、指示側の"楽"を選択したにすぎない発言だと思う。
もしも、そうした自由度をもたせるのであるならば、"絵を描きましょう。"という型すら、まず捨て去るべきだと考える。
せめて「今日は自由です。どうぞ。」の方が、まだいいように私は思う。
「絵を描く」という指示があり、それに沿った行動を取るのではなく、体験や経験(例えば:友だちと遊んで楽しかった思い出や忘れたくない風景に出会った時など)を通して、自発性が掻き立てられ、自らの意志でそれを「絵にして描き残したい!」と思い、行動し描き出す瞬間が最も大切なのだと思う。(大人も忘れたくない素晴らしい風景と出会ったら、思わずスマホを取り出して"カシャ"ってしますよね。)
そうした自発性が表に出てきた瞬間、周りの人々がそれにどう関わるか。そして、それが一体どこまで無限に広がっていくのか、またはそれを一体どこまで広げていくことができるのか。
それを、あくまでも"自然体の中で行う。" それが、レッジョ・エミリアの根底にある気がしている。
このことを踏まえて、もしも図工という型を、出来る限り自然体にしていくにはどうしたらよいか。
それを考え出すと、楽しくてしょうがない。
取り込んでいく中で、絶対に大切にしようと考えているのが「準備と用意のバランス」である。
あくまでも自己解釈のため、正解なんてことではないが、言葉にして心に刻んでおこうと思っている。
○準備…これはやってみてほしい。ここから始めてほしいなどの"きっかけ"
○用意…求められたときに差し出せる、経験値から生み出す"アイディアや材料"
この2つのバランスを常に保つことは、レッジョ・エミリアの考えを有用できることに繋がると思っている。
どちらかに偏ってしまっては、決して"自由"にはたどり着かない。
自由という言葉には、可能性を無限にまで広げられる創造性が兼ね備えられるが、それを支える用意がなくては、儚く、脆く消え去ってしまうような気がしてならない。
個人が生み出す創造性とは、それ程までに一瞬で燃え上がるローソクの火のようなもので、それを保つのは周りの環境が重要なのだと思う。
今、学校再開に向け、改装・整理している図工室も"アトリエ"と名を変え、その稼働を今か今かと待っている。
エビやペンギンの剥製。部屋の中央に立てられた白樺の木。15種類の木々の木材や彩り豊かな小石たち。
無数に用意された画材や工具。汚れてよい空間。飛び出したり、はみだしたりしてもよい環境と安全性からなる信頼。
世の中の良さが詰まった"世界に一つのアトリエ"を作ること。
それが今、"娘たち世代が生きる未来を、よりよいものにするためのアイディアになる"と信じて、夢中で取り組んでいることの一つとなっている。
次回はそんな"アトリエ"のことについて書こうと思う。
次回 :「続 レッジョ・エミリア 〜 日本の教育現場に落とし込んでみる 〜」
次々回:「レッジョ・エミリアと育児」
そのうち記載:「高司という男」・「レッジョ・エミリア × Camp 」
今回もお読みいただき、ありがとうございます。
世の中が平和を取り戻すために発信できることがあると信じ、遠回りですが20年先がよくなっていくようなblogに成長していきたいと思っています。
レッジョ・エミリア マラグッツィ「100の言葉」
こどもは100の言葉をもっている
(そして もっともっと何百も)
けれど 99は奪われている
そんな時代にならないように。
100の言葉を、101にできる時代にしたい。
100に+1できるのは、周りの人が作り出す環境次第だと思っています。
そんな世界を創っていきたいと思っています。
今度ともご愛読の程、よろしくお願い致します。
@mucchuart