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[小学校 図工科の授業] 対話・共創・繋がりを通して、社会変革(SDGs・IoT等)をみんなで考えるblog @話題提供

公教育と「社会」を繋げる

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苺と飛行機雲と

 玄関先で苺の苗を育てはじめた。きっかけはひょんなことでも3歳の娘にとっては、もはや大切な存在となっている。

 快晴の空、雲ひとつなく薄い青の大きなキャンパスに一機の飛行船が雲を吐く。その自然体な風景を見上げながら思わず「平和な世界にしていきたいね〜。」と、言葉をもらしていた。3歳の娘相手に。

 しかし、当たり前のことのように「そうだね〜。」と、水をあげながら言ってくれた。

 

 愛情や優しさ・思いやりや敬愛などは、常に目の前にあったはずなのに、きっと忙しさを言い訳にして、いろいろなことを見落としていた自分になっていることを、大いに反省する時間になった。

 今回の事態をプラスに変えていこう!という動きが世界中で見られるようになってきた。

 また、グレタさんのような若者が増えていくかもしれない、とモーリーさんが言っていた。僕もそうなりたい1人だ。

 欠如されてきたものだとばかり思っていた【愛情や優しさ】・【思いやりや敬愛】などは、決してなくなっていたのでなく、それを見ようとしているか、していないか。向き合おうとしているか、していないかだけの問題だった。

 娘とあの青空、そして飛行船から雲を出してくれた操縦士さんに感謝しかない。

 

「ひみつのサービス」はじめました。

 小学校はやらせっぱなしのことが多い。例えば掃除とか。

 奉仕活動という位置づけがあるため、それに見合う活動が用意されていること事態に疑問を抱く。

 奉仕とは、自ら気づき、見返りを求めず、自然と取り組むことがいつの間にか、誰かの役に立っている状態のことをいうと思っている。使ってもいない場所の分担に当てられても「当番だから」という一言で片付けてしまってよいのだろうか。やらされていると思いながらやっている清掃活動は果たして奉仕活動と呼べるのだろうか?

 結果として生活する場所を掃除することに変わりはないのかもしれないが、みなさんだったらどうしたら誰からも言われず、誰にも褒められない日があっても掃除したくなりますか?

 僕なら、その場所がかけがえのない、何にも変えることのできない"好きな場所"になればします。

 子どもたちに先にすべきことは、役割分担ではなく、その場所・その空間・環境、そしてそこにいる人たちを好きになることからだと思う。

 なのでまず、このメンバーで、この場所で何がしたい?と聞き、そして全力で遊ぶ。2、3日過ぎると当然汚れてくる。

 誰かがぽろっと「掃除しよ。」と言い出してくれる。汚いままでいいなんて、みんな思っていません。

(やらされるのは大人でも嫌ですよね。自分から「掃除しとこ♪」って思ってやっただけなのに、もしもふいに誰かに「ありがとう。」って言われたら、めちゃくちゃ嬉しくないですか?)

 子どもたちの発達年齢や経験値などから、あえて深くまで突き詰めず「そうであるから。」としてしまうのが、手っ取り早いからなのかもしれない。それほどまでにやらなくてはならないことが、過多してしまっているのかもしれないが…。

 一つ一つの活動を一個、一個話し合ってる時間なんて…。そんな声も聞かれる。

 でも奉仕活動などは、本来わざわざ時間を設定して話し合う必要なんてないと思っている。その機会が訪れた時に考えればいいことは、その時考えればいい。それでなく、未来に繋がることは、前もって時間を設定し、話し合っておくべきだ。

 そうしたことを分けず、何でもかんでもシステムの中に入れてしまっては、奉仕の心なんて育つはずがない。システマチックにしたことで失われてしまう、本来あったはずの愛情や優しさを、教員や大人自らが奪ってしまうことになるかもしれない。

 

 学校って合理性を教えるだけじゃない。

 学校の中には、一見無駄なようなことでも、そこにはとてつもなく大きな意味が隠れているものもあり、それを見つけ、話し合い、みんなで讃えあい、励まし合い、切磋琢磨していく中で見えてくる【共創の場】なのだと思う。共創には、大人も入り込まなくては共創にはならない。

 もちろん小学生という年齢にあったことを提示していくことは間違っていない。しかし、どうせ無理と決めつけてしまって、伝えない、考えさせないことは決してしてはならないと思う。家庭でもそうしたことをしていないか、不意に見直すようにしている。

 そんな時、大窪先輩が薦めてくれたレイチェル・カーソン著書の「センス・オブ・ワンダー」を読んだ。

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 家庭や学校には間違いなく大人がぱっとやってしまった方が早いことが多い。しかし、それは大人だって経験してきたからなだけであって、奉仕の心や自主性・創造性を育てるには、遠回りをしなくては決して見つからない。大人が準備すればするほど、子どもの可能性を減らしてしまうかもしれない。大人は準備ではなく、用意しておくだけでいいのかもしれない。

 子どもが「ん?」って思った時に「どう?」と示せるものを。

 分からなかったら素直に一緒に悩むことを。

 それが、大人がしてきた経験からなされる本当の共創なのだと思う。大人もそうしてもらってきたように、時代の流れが早く忙しく感じてしまうことが多いが、本当に大切にされるべきことから目を背けてはならないと考える。

 

一つのビー玉を

 「僕は内緒で考えた。教室の紙置き場が汚くなっているから掃除をすることを。すると、その場所をみたくなる。次の日も、また次の日も。あぁ、みんなは誰が片付けたか知らないんだろうな。」

 学生時代、お世話になった「横浜 初志の会」の島村先生が紹介してくれた小学生が書いた詩だ。

 何度も見たくなるその気持ちに、とても共感できる。あわよくば掃除したことがバレてほしいくらいだ。笑

 この詩に出会い、教職につき、教室内にふっとした瞬間に目をやると、綺麗になっている空間や場所があることに気づくことがたくさんあった。だからといって誰ということを突き詰めることはしない。時には、「誰かが綺麗にしてくれているね。」とみんなにあえて伝えることもあったが、先にも書いたように、奉仕の心は自らが進んで取り組む、繊細な作業だと思う。それを公にしてしまった瞬間、その繊細さは失われてしまいそうな気にもなる。

 しかし、人は認めてもらうこと経験がないと、心はなかなか育たない。

 公にもせず、でもそこで密かに認めてもらえる何かいい方法は…

   引き出しを開けると図工で使ったビー玉が5、6個あった。ビー玉って不思議だ。B級の玉なのにこんなに綺麗だなんて。

 A玉は一体どれほどなんだろう。

 その透明で、繊細なビー玉は持っているだけで幸せになる気がした。

 これを手放すには、繊細さをぶつけるしかない。センシティブな考えが生まれた。

 前回のブログにも書いたが、学校には「やらなくてもいいが、やりたいからやることがある。」これは、その空間が好きであればあるほど、自然と出てくるのだと思う。何もしたくないのは、その人がダラけているのではなく、その空間にこそ問題があると考える。

 思わず考えたくなる、行動したくなることが多い環境設定。*次々回「図工とレッジョエミリア」で記載します。

 学級を開き、たくさん遊び、会社活動も進み、コミュニケーションも取れはじめ、空間が動き出したら、ここで絶対に必要なのが「心というスパイス」だ。喜怒哀楽、すべてが意味をもって全力でみんなが感情を出せる空間にしていくこと。そのためには、もっとも大切になる土台・基盤の"みんなの優しさ"が必要だと考える。

 そうした優しさは「優しくしましょう。」なんて言葉では育たない。自分ごととして考え出さなくては、そしてまずは自分が認められなくては、相手を認めることはできない。順序を誤ると嫉妬心などが生まれてしまうのかな。

 

 とある、コンビニのトイレにて

 地方に旅行に行き、駅前のファミマに入りトイレを借りると、今まで見たこともない綺麗さが、そこにはあった。

 「えっ?トイレ?」と思うほど。ガラスはピカピカ。掃除用具は一切見えず、照明は間接照明。水滴もなく…

 これは汚せないし、使った後汚くしていないかなと見返すほどだった。

 たかがトイレ、されどトイレの瞬間だった。このことは、必ず学級で話そう。撮らせてもらった写真も見せて。笑

 さらに驚きなのが、観光客が決して多くない土地のファミマであること。ぽつぽつしか来ないであろうお客さんのためにここまでできるサービスって…。感心しかない。

 写真を見せながら、「どこが綺麗だと思う?」と聞くと、15箇所くらい出てくる。トイレの写真なのに見せても騒がないのがすご い。そして、先程載せた詩を紹介する。

 「誰が使うかも分からないけど、丁寧に掃除をしてくれる人」と「誰が掃除してくれたかも分からないけど、丁寧に使わせてもらった人」ここには間違いなく、目には見えないものがある。

 そんなことを子どもたちとお互いに話し合いながら、授業の最後にビー玉を1人に一つ配る。

 「ひみつのサービス」はじめました。こんな目に見えないことがたくさん起こる空間にしたい。誰がやったかも大切だけど、そこにいられることの方が何倍も素晴らしい。でも、そうした空間を生み出してくれた人は、必ず認めてもらうべきだと思う。

 分からないことの素晴らしさを分かってほしい

 だから、もしもそうした思いになった時、そっとこのガラス瓶にそのビー玉を入れてください。

 誰が、何をしてくれたかは分からないけど、そこには必ず幸せが訪れているはず。その中で生活できることが、何よりも幸せだから。

 

 そんな話をした翌日、朝からみんな空の瓶に夢中。きっと初めに入れたいけど、もやもやするんでしょうね。

 休み時間が過ぎ、給食後くらいに「あーー!!入ってるーー!!」もう教室は大騒ぎ。これこそ嬉しい悲鳴。

 その日を境に、ぞくぞくと溜まるビー玉。

 みんな一体何をしてくれているのか、こちらも分からない。けれど、増えるたび幸せになる。

 たかがビー玉、されどビー玉な瞬間だと思う。

 

 *集団ではないと味わえないことの一つかなと思い、毎年あのトイレの話はしています。

 溜まったビー玉は、年によっても違いますが、活用は子どもたちが決めます。溜まったら拍手や牛乳で乾杯。

 1時間遊んじゃおう!なんて年も。

 目に見えない人の心こそ、世の中でもっとも大切にさえるべきことだと思います。

 

 今回もお読みいただきありがとうございました。

 次回 :「教科ごとのめあてを作るのではなく、人として出会った子たちに自分は(先生)何を伝えられる人間であるかをまず先に考える。」

   次々回:「図工とレッジョ・エミリア 思わず行動したくなる環境設定」

 今後ともご愛読の程、よろしくお願いします。

 

 @mucchuart