今こそ「公教育」を見直すとき
○公教育を見直す。いい未来を待つのではなく、未来を創る一歩目のブログ。
この事態を受けて、変化がないことの方が違和感を感じる人に。
ある意味では、日本のよさとなり、時に弊害となるのが「現状維持」という言葉だと思う。
日本は予てから大成功の道(歴史)を歩んできた。そこには、現代人には計り知れない努力や犠牲、知恵や知識、血と汗と涙・・・。先人たちの、本当に数々の努力の結晶により創られたのが現代だと思う。
しかし、現代社会はそうした大きな基盤の上に鎮座し、正座ではなく、あぐらを掻いているように感じる。正座していれば、足も痺れ、立ち上がろうとするのではないかな・・・。
「公教育の見直し」そうした言葉は、近年よくに聞こえてくる。私自身、小学校の教員をしてたがだか15年。しかし、ここ最近自分の教育感がアップデートされていないように感じる。たった15年だが、プロ意識をもち常に臨んできた!と胸を張って言える。
だが、「何かが違う。」
そのなにか。それは、「現場での、無駄が少ないこと。」きっとこれだと思う。
それはいいことなのかな?と自分に問いてみたが、答えはNOである。公教育の楽しさは、「いかに無駄から学べるか。」くだらなそうなことも、大切な大好きな人たちとだったら全力で取り組み、そこには必ず笑顔が生まれた。今の公教育には、それがない。厳密に言うと、それができる時間がない。
だからこそ、それに気づいた教員はそうした時間を作るために授業改善し、タスクを減らし限られた中でも、子どもたちが将来大切にしてほしい「情」を共に練り、育んでいる。
でも、そんな人として生きていくためにもっとも大切なことを考え合う場が「学校」なんじゃないのかな。なぜ、それを捻出しなくては生み出せない場になってしまったのだろうか。
教員の質が落ちた?家庭環境が変わった?社会の流れが速いから?・・・
話は単純で、無駄に目を向けることができないくらいに、子どもも大人も常に新しいことに踊らされているから。「現代は刺激物が多すぎる。」
今回の事態を受け、「学校」というものの本来あるべき姿に、今一度立ち戻る必要がある。
事態の収束がもちろん一番だが、そうした素晴らしい未来を待ち望みながら、「今」できること、それは「未来を待つ、ではなく創る。あぐらをやめてせめて正座に姿勢を直す。」ということだと思う。正座していれば、一回寝転ぶが、絶対立ちたくなる!
○家庭教育、というか親の子を持つということの本質や意味
○公教育の場で「本当に学び合うべきことは何か。」
ブログ開設して間もないなか、こんな硬い話から書き書きし始めますが、よかったら読んでください。
*次回、創りたい未来の話を書きます。
○公教育を経済と結ぶ。